DMTea Ceremony Case

アヤワスカ茶が争われている最初の裁判

第二回拘置理由開示裁判

京都簡易裁判所で行われた、第二回拘置理由開示裁判における青井被疑者の意見陳述

そして、私がこれを皆さんにお勧めする理由ですが、精神病になった人が精神病院にかかって回復する率は2割程度です。ツイッターでアンケートをとったところ、これも2割程度であり、大きく動く数字ではないと考えています。つまり、100人中80人は、もし心の病気を負ったとしてもそれを解決することはできない。これを効率よくその精神を回復させる手段というのは、国益、社会に貢献すると自分は考えています。これはお茶の話ではありませんが、現在、情報化社会になって、あらゆる情報が手に入るようになりました。ホピ族、ユダヤ密教イスラム密教といった隠されていた秘密の情報がたやすく手に入る状況になり、あのブッダが使っていた技術が再現できるようになりました。自分はこれを使って小ブッダの生産をしようと考えていたのですが、その小ブッダ、いわゆるサマなるもの、日本でいうと按摩、指圧、針、加持祈祷、山伏、またはシャーマンだとかクランデーロだとか海外ではいうんですが、そういったものの技術を分かりやすく人に伝えるときに、しかし二つ欠点がありました。まず一、学んだ人の生存率の低下、生きの低下、生きにくくなるのです。二つ目が悪用です。悪用というのは、人と相対したとき、その人がどのような歪みを持っているのか、どのような傷を持っているのかということを把握することができます。そういう傷を持っている人は依存したがるのです。薬物依存やネット依存、セックス依存、先ほど申しあげたとおりです。それを元に戻してやるか、別のものに依存させてあやつるかというのは、サマ、その技術を持った人の意思次第です。そこで、まず悪用を防ぐために、お茶を使って2時間だけ、その歪みや傷をみたい人、というのが大量に必要でした。これはみればどんなものかというのは分かるのです。そのみた人を私はシクと名付けています。そのシクの人たちに対して、宗教の失敗の知識だとか、禁じ手、愛とは何か、暴力的に帰依したりだとかするとどうなるかということを、全体メールやラインナップなどで伝えています。習得した上で、正しく導いてくれるサマ、口伝で案内してあげることが可能になります。このサマとシクの相互監視体制がオウム予防につながる、つまりカルト宗教を防ぐための、宗教を束ねるための宗教になると自分は考えています。これは民族の中に民族を作る行為であって、今の現状の社会で許されるかどうかというのは、今この場にかかっていますが、自分はこのように考えています。宗教を束ねる宗教です。お茶を飲んだ人が狂うことはありません。なぜなら、自分は24時間電話受付けをし、知識をきちんとやらなければ、そもそも酔えない設計をし、アフタフォローをし、しかも無茶をすれば、安全に無痛で下痢として排出される設計などを、多岐にわたる安全策を実施しています。先ほど述べたとおり、人体が夢をみるときに内分泌されるもので、ペルーでの何千年にもわたるお茶の飲用歴というのが、飲んだ人が狂うことはないということを証明しています。そして先の二つの欠点、生存率の低下、悪用の欠点がお茶にはありません。海外ではアルコール依存者や刑務所に服役中の人にボランティアが振る舞いに行くことがあります。これはなぜか。先ほど述べたとおり、愛や感謝といった感情が分かるようになるからです。現代人は意外と多くの人がこれらの感情を理解していなかったり、誤解していたり、軽視したりしています。このサマなるものに属する技術群というのは、愛にもとづいて行う必要があり、それを理解しないまま行えば、大きな人災に見舞われます。25年前に起きたオウム真理教の暴走はここに依拠しています。この大きな人災は、本人も見舞われますし、社会も見舞われます。ここに注意して、そのシクと呼ぶ人たちを大量に増やせば増やすほど、そのサマとシクの相互監視体制が強化され、より社会は安定していきます。そして、そこで起こった様々な出来事を自分が取り上げ、報告を聞き、それを簡易な言葉で、易しい言葉でシクの人に、サマの人に伝えていくことで、どのように扱えばいいのか、というのが宗教的保存、宗教的な枠組みの中で保存されます。先ほど、その他の利点として、霊が見えるだとか、存在に気付くだとか述べましたが、これは要は、重心のことなのです。今の唯物論に支配された人たちの言葉の感覚でいえば、そういうことになります。たとえば、下に固定すると、スポーツや格闘技などがうまくいきます。上にやると、こうやって喋ることが、もっと上にいくと、占いだとかヒーリングだとかそういったものにつながり、人間活動すべてへの深い理解が得られます。その中で、今現状問題になっている、心の傷、自分は30代なのですが、同級生が凄くその心の傷に苦しんでいます。その心の傷にリーチする手段として、昔ブッダなどが使った知識が必要に、重要になってきます。これらの知識をうまく活用するために、悪用されないようにするためには、この構造がどうしても必要だと、自分が考えました。

裁判官「すでに10分を超えていますので、意見が残っているのであれば、あとは要約して述べてください」

被疑者

人の心が、今、等比級数的に癒されていく状況でした。自分の行いが 邪悪であったのか、正しい行いであったのか、心の目で見て、よく判 断してください。

第一回拘留理由開示裁判

京都簡易裁判所における青井被疑者の意見陳述

覚せい剤を使用している人は暴れますが、アカシア・コンフサを常用している人は感謝と愛をモットーにしています。お茶にしたのは、施用者の安全のためです。『図解!うまくいく清澄方法』に書かれているとおりで、お茶を作りますと単体では酔いません。お茶を飲んだとしても体、精神に異常は出てきません。酔うようにするには、アセトンを入れ、炭酸ナトリウムを入れ、よく攪拌し、水とアセトンに分離し、そのアセトンを乾燥させ、そこから何やかんやして単体にする必要があります。そうなって初めて酔うことが可能になります。

自分はこの活動を全て法の枠内でやろうとしました。法に書かれていないお茶にしようとしたのは、安全のためです。池袋で警備員をしていたときに、自分の警備しているはす向かいで危険ドラッグを吸って暴走した車が激突し、何人かの死傷者を出しました。そのとき自分はおびえや恐怖を強く感じました。それで、今後こういったことがあってはならないと考え、危険ドラッグを撲滅してしまおうと、危険ドラッグ撲滅運動として展開することを心に決めました。

厚生労働省が行っている対策を見たところ、これではアンダーグランドにもぐるばかりで、根絶はできないと考えた自分は、いろんな向精神物質を見て、他人に被害を与えない、薬に依存しない、飲んだ前より飲んだ後が健康になる、合法である、この4点をクリアするものを探したところ、日本薬局方に書かれていないアカシア・コンフサという植物片に行き当たりました。これをうまいこと皆さんに提供できれば、危険ドラッグを撲滅できるのではないかと考えて、薬草協会というサイトを立ち上げて皆さんの意見を聴きながら、例えば、ヨガの人、代替健康法の人などの意見を集め、弁護士にもリーガルチェックを行ってもらい、どうやったら安全に飲めるのか、どうやったら社会に迷惑をかけずにそれが達成できるのかということを模索し始めました。

それがこの3年間です。

お茶の起源は、南米で一般に飲まれているアヤワスカというものです。それを日本の材料でできるように改良したものが自分が提供しているアカシア・コンフサのお茶です。ペルーでは、心の治療のために用いられています。

自分は33歳で、同級生にアルコール中毒になった者や首をつった者や精神を壊して入院した者などたくさんいます。同級生に健康になってもらいたいという思いで、ペルーにあるお茶を輸入するという活動方針に徐々に転換していきました。もちろんさきほど言った4点を守ると決めて活動してきました。今ここで達成できたと思っていたのですが、法律に書いていないお茶にするというところまで踏み込んだのは、粉の状態では少し効くのが遅れてしまうといった不都合があったからです。もし、この裁判でだめだということになってしまうと、またいたちごっこが始まります。アカシアの木片は所持しても大丈夫です。これを規制してしまうとベラドンナとかハシリドコロとか、もっと危険な植物のオンガオンガとかが台頭してきます。危険ドラッグの災禍の再現が起こってしまいます。自分の意見としては、健康に酔える、他人に被害を与えない、依存しない、そういった酔いを確立し、もって、いたちごっこを止めたいと考えています。

自分は工事現場で安全基準について学びました。しかし、日本の法律では1回触っても大丈夫というフールプルーフの安全基準はとられていません。自分は、この安全策を作って法の枠内でやろうとしました。しかし、民間でできることは限られていました。このような見当違いの大鉈を振るうのではなく、話し合って、今後の持っていき方を話し合いたいです。



CE2021/03/21 JST 作成
CE2021/03/21 JST 最終更新
蛭川立

著者の見解

新型コロナウイルス感染症による緊急事態下で、日本で最初となる、アヤワスカの合法性を争う裁判が始まった。

しかし、このことを、たいがいの日本人に話しても、南米の先住民族が使用している幻覚植物のことなど、ほぼ誰も知らない。また、日本をはじめ、非西洋圏は、サイケデリックカウンターカルチャーも経験していないので、サイケデリックスという名前ぐらいは聞いたことがあっても、危険な薬物の一種だというぐらいの認識しかないのが普通だ。

日本では理解されないと思い、欧米の人たちと連絡をとってみたが、訴えられたのはダイミか?UDVか?と聞かれる。そんな組織的な裁判ではない。ある植物オタクの若い男性が、日本にも自生しているDMT植物をネットで販売して、逮捕され、起訴された。そして、そう説明すると、また不思議がられる。

仮にそれが違法行為だったとしても、わざわざ起訴されて裁判になるのはなぜか。欧米先進国なら、そんな個人的な売買は普通に行われていて、それが良いわけではないが、他にも犯罪が多すぎて、取り関わっている暇もない。犯罪の少ない日本でも、事情は、そう大きく違わない。せいぜい注意されて終わるか、逮捕されても起訴まではされない。無警告で逮捕するのも、良いやりかたではない。

青井被告がインターネットを通じて、うつ病に効くという薬草を売り、買って飲んだ大学生が健康被害に遭い、だから薬機法で訴えられた。青井被告は加害者であり、大学生は被害者である。最初、私はそう思ったのだが、違った。青井被告も大学生も、麻薬及び向精神薬取締法違反という理由で訴えられた。被害者であるはずの大学生は、青井被告の共犯者とされたという。これには、まったく納得がいかなかった。

ではなぜ起訴されたのか。それはわからないし、まさにそれがこの事件の謎である。日本の司法は、精密司法と呼ばれていて、逮捕されてから起訴するまでの間に、精密な取り調べが行われる。それゆえ、起訴された被告人のうち、99.9%に有罪判決が下るのだと学んだ。裁判は、厳密な儀礼的行為となっている。この、精密に完成されたシステムが、戦後の日本の、きわめて安定した社会を守ってきた。

これは、あくまでも私の推理にすぎないが、まだ経験の浅い、若い検事が、起訴すべきではない容疑者を、勢い余って起訴してしまったということらしい。といって彼女自身は、経験不足だっただけで、任務には忠実だった。日本の薬物犯罪は、ほとんどが覚醒剤だから、DMTもまた、新種の覚醒剤と勘違いしたのではないかと思う。じゅうぶんに酌量すべき、更生の余地のある、若さゆえの過ちであろう。そう書いてしまうと、なぜか検察官と被告人が逆転してしまう。しかし、そうではない。検察庁は、公的な組織だから、構成員個人の失敗は、組織全体の過失となってしまう。任務を忠実に実行した個人を責めることはできない。

いっぽう、被告人のほうも、この種の事件では、普通は反省し、執行猶予つき、つまりは事実上の無罪放免で終わるはずなのに、彼は、自分の行為は病める人の救済だと言って譲らない。といって、そこには強烈な宗教的なパッションはない。裁判は法というルールに則ったスポーツだから、フェアプレーをしなければならないという論理で、争い続けている。つまり彼は、日本の安全を保障してきた精密なシステム自体には異議を唱えていない。むしろ、敬意を払っているといえる。

この完成された官僚制、99.9%精密なシステムは、それが正常に作動している間は、きわめて優秀な安全装置として機能するが、0.1%の誤作動は想定外である。綿密なシステムほど、想定外の事態に対応できないという脆弱さがある。

精神展開薬が見せる、超越的な世界には、世俗的な社会秩序の維持をおびやかす、潜在的な危険性がある。しかし、今回は、その危険性を知った上で、国家が取り締まったのではない。だから、争点が曖昧なのである。

ここでは、できるだけ事件を客観的に記録に残したい。この事件は、国家権力による不当な弾圧との闘い、被害者の悲しみ、推理小説のような謎解き、カルト宗教の狂気など、わかりやすい物語によって記述するのが難しい。読者は退屈な思いをするかもしれないが、その、ある種の物語性の欠如こそが、現代日本の文化の物語なのかもしれない。

たとえば、青井被告が開発した茶は、南米のアヤワスカ茶ではない。アヤワスカ・アナログである。アカシアやミモザなど、雑草としても生えているような植物と、個人輸入可能なMAOIサプリメントの組合せである。ハーブとケミカルという、異なる文脈の、場当たり的な組合せのようにみえて、じつは、身近にあるものを最も合理的に組み合わせたブリコラージュなのである。

青井被告は、担当検事が、彼を誤って起訴したのではないかと語っている。彼女は、決まったとおりの手続きに従って仕事を進めるのは得意なようだったが、薬物=覚醒剤暴力団、個人的な初犯=反省=不起訴、といった公式どおりに当てはまらない、青井被告のようなケースを扱いかねて、パニックを起こしてしまったのではないか、とも語っていた。これは、社会的には、強迫的なまでに精密になりすぎた日本の官僚システムの問題ともとらえられるし、その強迫を心理学化すれば、発達障害という流行病の症状のようにもみえる。それはまた、検事と同世代の青井被告の「心の理論」による投影かもしれない。

精神展開薬には抗うつ作用があるとして注目されてきているが、じつは日本では、定型的なメランコリー型うつ病は減少し、その病状は非定型化しているという。科学史を辿れば、憑霊現象が日常だった社会が近代化し、精神医学と統合失調症が、あたかもセットのように登場した。うつ病SSRIなどの抗うつ薬がセットで流行したのは、1990年代から2000年代である。その後は、大人の発達障害という病の「発見」と「流行」が起こった。精神疾患のかなりの部分が内因的であるのにもかかわらず、いまだにバイオマーカーが発見されておらず、だから精神疾患は、診断という相互行為から、社会的に構築されてしまう。

客観的に見て退屈だといっても、日系日本人の、中年男性の、人類学者という視点からの解釈である。この事件の背後には、未解読の豊かな意味があるのかもしれないのに、私が見過ごしているのかもしれない。だからこそ、この記録を公にしたい。多くの文化に属する人たち、あるいは未来の人たちが、この事件を、私とは異なるパラダイムで読み解いてくれることを、そして可能なら、共に議論できることを期待している。



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CE2021/03/21 JST 作成
CE2021/09/22 JST 最終更新
蛭川立

Kyoto DMTea Ceremony Case -The First Trial to Judge Ayahuasca in Japan -

What tea is, boiling water, putting plants, drinking it.

- Sen no Rikyū[*1]

Contents

Bodhisattva - The First Trial

Author's point of view

Kyoto DMTea Ceremony Case

Kyoto DMTea Ceremony Case -Time series of events-

Issues in the Kyoto Ayahuasca Tea Ceremony Trial

Saudade do Brasil - My Voyage -

Everything has Nothingness - The First Interview -

Drunk Days, Dream Death - The Second Interview -

Why DMT?

Tea and Zen are of One Taste -The Second and Fourth Trial -

E pur si Muove -The Third Trial -

Fifth and subsequent trials

Ayahasca as Tea Ceremony




This is an essay based on actual case. English texts are powered by Google translate.

I am writing this manuscript in Japanese, and I am translating these texts into English by myself - powered by Google translate -. I have the copyright of these texts written in Japanese and English . These texts will be translated into Portuguese. In January of the next year, a book collected papers on globalization of ayahuasca tea in post modern world, will be published in Brazil. These texts are the manuscript preparing for one chapter of the book.



Copyright 16-09-2020/2563 JST
Last Revsed 21-03-2021/2564 JST
(C) Tatsu HIrukawa

*1:1522-1591, the founder of tea ceremony in Japan.

普化振鈴

アヤワスカ茶道

私が報道番組の取材を受けた2008年に、知人から、自分も奈良で行われていたサント・ダイミの礼拝に参加したことがあると聞いた。私が会いに行くと、彼は、礼拝で使われていた聖歌集を見せてくれた。そこには、ブラジルでよく聞いた、聖ミカエルなどのポルトガル語の歌の他に、日本語の聖歌が追加されていた。

私は日本での礼拝に興味を持ったが、彼によると、奈良での活動は、もう行われていないという。取り締まられて禁止されたわけではない。サント・ダイミという会員制の組織があるわけでもなく、活動は個人の自由裁量に任されていて、日本各地で、あたかもリゾーム状に離合集散を繰り返しているのだというが、それは本家本元のブラジルでも同じだ。

日本で宗教団体だとかいうと閉鎖的で反社会的なイメージが強いが、ブラジルは違う。小さな宗教団体が分岐と統合、生成と消滅を繰り返している。いろいろな宗教の集会に出入りすることが日常生活の一部になっている。その自由と寛容が、ブラジルの精神である。

その4年前から、私は裏千家の師匠に弟子入りして、茶道と、その背後にある禅仏教の思想を学んでいた。師匠は前衛的な若い男性で、それなら、日本で「侘びアヤワスカ」という茶会を催してはどうかと言われたが、私は、それは無理だと断った。法律の問題ではない。アヤワスカ茶を客人に振る舞えるようになるには、それなりの人格の陶冶というものが必要だ。

このときには、私は茶道についてのエッセイを書いており、日本の茶道や、南太平洋のカヴァ茶、あるいは南米のマテ茶やアヤワスカ茶など、薬草茶の儀礼的な使用という視点から人類学的に論じたものである。以下は2009年に日本で出版された小論からの抜粋である[*1]

アマゾンの先住民が治療儀礼に使用していたアヤワスカ茶が、アフリカ系労働者の文脈に置き換えられて、解放の神学となった。アヤワスカ茶系宗教団体の中でも、バルキーニャがアマゾン地区限定であるのとは対照的に、サント・ダイミはサンパウロなどの大都市で中産階級の間に広がっていたインド・仏教ブームと結びつき「自己を見つめる」という瞑想的な色彩を強く帯びるようになる。さらに、そこを起点に欧米や日本に向かって展開していくなど、世界的な広がりを見せている。

日本のサント・ダイミが奈良や京都[*2]といった古都を中心に活動しているというのもまた象徴的である。無節操ともいえるほどの多様性と寛容さを持ったブラジル文化というポテンシャルが、こうした新しい文化の生成を可能にしているのだ。
 
サント・ダイミの聖歌は、もとのポルトガル語版が約百五十曲あるが、さらに日本語版ではオリジナルが二十曲ほど追加されている。
 
春は光差して 花が開いて
新しい命が 雪をとかす
夏は暑い胸と 熱い思いが
あの大空を 焦がしていく
秋は愛と光が 豊かに実り
みんなで分かち合える
冬は静かに 枯れていこうよ
雪がしんしんと積もる

 
(サント・ダイミ 日本版聖歌5番「春夏秋冬」Shavdo作、より)
 
義のために戦う大天使ミカエルの垂直的な躍動性から、水平的な四季の循環そのものに世界の摂理を感じ取る日本的感性への変容。もはや「サイケデリック」という言葉から連想される、渦巻く極彩色というイメージはまったく捨象され、あたかも禅画のような「侘び」「寂び」の美学が、ここに芽生えはじめている。

このShavdo ーヴェーダに出てくる音の神ー というサンスクリットの名を持つ人物は、あるときはインド、あるときは日本、またあるときはブラジルと、尺八を吹きながら諸国を行脚しているという。尺八とは、中世の日本で使用されるようになった、竹から作られた管楽器で、寂しげな音色を響きわたらせる、虚無僧のシンボルである。虚無僧、つまり「『無』の僧」とは、托鉢しながら諸国を行脚していた、普化宗[*3]の禅僧のことであり、ときに虚無僧は詩歌も詠んだ。

現代の日本の文化の中で、伝統的な禅や仏教は、西洋の人々が想像するほどに、人々の精神生活には大きな影響を与えていない。とりわけ都市に住む人々にとって、仏教寺院は観光地であり墓地である。だから、およそ仏教などとは無縁で育ったはずの若い世代である青井被告が、自分の活動を仏教、とりわけ臨済禅だと言ったことに、私は驚いたのである。

しかし現在、インド哲学から派生した仏教思想は、東アジアを経由し、アメリカナイズされ、かたやブラジルの都市部に浸透し、かたや日本に逆輸入されている。私もまた逆輸入された仏教思想やインド哲学に興味を持つようになった世代である。

証人尋問へ

京都アヤワスカ茶会事件は、前例のない裁判であり、その見通しは不明である。もし京都地方裁判所が有罪という判決を出せば、青井被告は、大阪高等裁判所に上告すると言っている。また、京都地方裁判所が無罪という判決を出せば、検察側が大阪高等裁判所に上告するだろう。そこでも結論が出なければ、東京にある最高裁判所で争われることになる。

4月以降の公判では、検察側と弁護側の双方から証人尋問が行われる予定である。

もし、専門家証人として裁判所から出頭を命じられれば、私は、アヤワスカ茶会が、真摯な宗教行為であることを、証言するつもりである。

アヤワスカ茶はアマゾン川上流域の先住民族が宗教儀礼に用いてきたものであり、日常的な嗜好品としては使われてこなかった。ブラジルではカトリックと習合し、アヤワスカ茶の施用は政府公認の教会でのみ合法的に使用されており、反社会的な組織とは関係がない。

青井被告は、初公判で、アヤワスカ・アナログ茶の茶会が、自然宗教の実践であり、また大乗仏教における菩薩行でもあると主張した。これは、日本の宗教的風土が、基層文化としての自然崇拝と、インドから中国を経て伝わった大乗仏教とのシンクレティズムであることに対応している。そして、この日本の宗教文化は、アマゾンの先住民族の社会と類似しており、基層文化としての自然崇拝と、南欧から伝わったカトリックとのシンクレティズムであるという並行関係にある。

また、接見で、青井被告は、自分の茶会の思想は臨済宗だと私に語った。茶道とは、臨済宗の思想にもとづき、日本で発達した儀礼的実践である。

もし、茶とは何か、と問われれば、証言台で、私は、茶とは、まったく単純であり、かつ、まったく真摯な一期一会だと答えたい。

茶とは、ただ、湯を沸かし、そこに植物を入れ、それを飲むことである。



CE2021/03/15 JST 作成
CE2021/03/16 JST 最終更新
蛭川立

*1:蛭川立「密林の茶道」黒川宗五編『新しい茶道のすすめ』。ただし、先のエッセイでは紙幅の都合で省略した二番の歌詞も載せている。

*2:京都で(青井被告とは無関係に)アヤワスカの茶会が催されていたというのは伝聞だが、ペルーとのつながりがあるとも聞いた。もしそうなら、ブラジルの宗教運動とは別での活動である。

*3:臨済宗から分化した宗派で、臨済と同時代のトリックスター、普化に由来する。詳細は『臨済録』を参照のこと。

京都アヤワスカ茶会事件 ーDMT植物茶が争われる日本初の裁判ー

この記事には係争中の裁判についての記述が含まれており、中立的な観点を欠いている可能性があります。事実関係にもとづく検証が必要とされています。





この記事は実際に起こった事件を元にした、逐次更新中のエッセイです。実際の事件に対し、やや脚色している部分や、著者なりの解釈ががあります。

*1:ほぼ原文のママなので、もうすこし整理します。

*2:ほぼ原文のママなので、もうすこし整理します。

*3:脚色過剰につき改訂中

*4:脚色過剰につき改訂中

*5:加筆修正中

第五回以降の公判

2020年11月の第五回公判から、2021年3月の第八回公判までの4回の公判では、検察側と弁護側の短いやりとりが行われるだけで終わる、という、膠着状態が続いている。

2021年1月8日から3月21日まで、日本の大都市圏は、再び緊急事態宣言下となった。裁判は継続されたが、実質的な進展がない。傍聴人は減った。青井被告の出番もない。

検察側は、弁護側に対し、主張を裏づける証拠を出すように要求した。弁護側は、検察側に対し、主張を裏づける学術論文を13本、提出した。そのうち11本は、英文の論文であった。検察側は、英文の論文については、全文を日本語に翻訳しなければ正しく理解できないと主張した。弁護側は、全文を和訳するのは無理であるし、英語の論文は全文を提出しているので問題はないと主張した。

けっきょく、英語で書かれた論文については、抄録と主な図表だけを和訳することとなった。

論文の選定から翻訳までを行ったのは、喜久山弁護士、青井被告本人、そして、私と、それから5人ほどの協力者である。私は、必ずしも弁護側だけに協力したいわけではない。刑事裁判なのだが、被害者はおらず、そもそも、検察側と弁護側の議論は対立していない。対立しているようにみえるのは、ようは、検察側の不勉強による誤解である。喜久山弁護士は、初公判のときが初対面だったが、「検察側を教育してやりましょう」と言って私を口説いた。私は大学教授の社会的活動の一環として、薬物問題についての教育啓蒙活動に加わることにしたのである。

喜久山弁護士は、薬物事件が専門でもないのに、とても熱心に勉強してきた。それに対し、検察官たちは、ほとんど何も学ぼうとしていないようにみえる。仕事が忙しすぎてそんな勉強の時間もないが、といって、起訴を取り下げるなどということは、さらに厄介な大仕事になってしまう。私は、青井被告の行動には間違いも多々あったと考えているし、だから検察側の主張にも理があるとも思う。しかし、我々の血税によって生活と仕事を与えられている検察官に、謙虚に学ぼうという姿勢がないだけでも、私が彼らを信頼することができない、じゅうぶんな理由になった。

この裁判は、DMTという物質やアヤワスカという薬草茶について、公式に議論が行われる、想定外の、しかし非常に貴重なきっかけとなった。むしろ、検察側の背後にいる厚生労働省科学捜査研究所などの専門家たちに、それを理解してほしいと考えている。

論文の翻訳作業は、できるだけ効率よく分担して行ったが、最終的には監訳者として、私がすべての翻訳結果を推敲した。分析化学から精神医学、研究に用いられた統計的分析方法など、私も、本業のかたわらで、必死で勉強した。京都大学から東京大学編入し、心理人類学の方面に転向した私にとって、ミクロな生物学を学ぶことは、修士課程まで在学した京都大学で学んだことを思い出し、そして三十年にわたる生命科学の進歩に驚き、遡って学びなおす作業でもあった。京都地裁は、鴨川を挟んで、京大の対岸にあるから、公判のたびに、訪れるたびに、志学を胸に上洛したときのことも思い出させてくれた。

第八回公判では、ようやく和訳つき、13本の論文をすべて揃えて提出することができた。しかし、検察側の意見は、すべて不同意だった。どの論文のどの議論に問題があるのかは、いっさい示されずに、すべての論文に信頼性がないという理由で、すべてが却下された。さすがの裁判官も、いよいよ様子がおかしいと思いはじめたようだ。

青井被告は相変わらずのポジティブ思考で、これ、三十年早すぎましたね、と言って笑っている。彼が解説してくれたところによると、担当の立川検事は、翻訳資料を受けとろうとしたらしいのだが、上司から、不同意にしたほうがいいという指示があったらしい。この京都地裁で、同意した上で無罪判決が下されれば、次の大阪高裁で争うときに、不利になるから、という理由らしい。どういう意味だろうか。相変わらず、私には裁判の理屈というものがよくわからない。

どうやら、この京都地方裁判所で、青井被告に無罪判決が下ることは避けられなくなってきたということになり、京都地方検察庁、あるいは日本の検察組織の内部に、小さな揺れが起こり始めたらしい。それは私にも理解できた。

知識に対する謙虚さを欠いた人々が、洛外へと去ろうとしている。たとえ政治の中心が東京に移っても、京都はなお日本の文化を生成する場所であってほしい。そして、京都地方裁判所には、まだ読まれるには少し早すぎる研究成果が、日本語として保存されることになる。


国内外の研究者にも広く呼びかけたが、意外に反応は弱かった。日本でも、東京大学や、国立民族学博物館など、国立の専門研究機関をはじめとして、アヤワスカなど、中南米の先住民の薬草文化を、現地調査している人類学者は多い。精神展開薬の抗うつ作用に注目している医者や臨床家も多い。すでに、ケタミンやその異性体臨床試験が行われ、製薬会社が流通の仕組みを作りはじめた。しかし、大学教授や医者などの協力者は、誰も現れなかった。仕事が忙しすぎて他のことまで引き受けている暇はない、という理由が多く、それは、もっともだった。もし私が参加していなければ、専門研究者で、協力者は誰もいなかっただろう。

なぜこの裁判が注目されないのだろう。物語性の希薄さについては、別の場所で論じたので、繰り返さない。

国外(出身者)のほうが反応がよい。もとよりDMT研究つながりだったDavid Luke(グリニッジ大学)、Andrew Gilmore(沖縄科学技術大学院大学)からは、専門的な助言をもらっており、さらに、裁判をきっかけにして、Steven Barker(ルイジアナ州立大学)とも知り合うことができた。欧米では、ブラジル系のアヤワスケイロ宗教が訴えられ、裁判になっている。ただし、この日本での裁判が、ブラジル系宗教団体とも、どんな団体とも関係のない個人が起こした小さな事件であることは、説明しても理解されにくい。

しかし、背景の事情がどうであっても、人口一億人の先進国である日本の裁判所で、DMT含有茶が合法か、かりに違法だとしても宗教行為であれば認められるという判断が出れば、その判例は、国際的な影響力を持つ。



第五回公判以降、裁判はあまり進展していない。しかし、青井被告も役者である。傍聴者を飽きさせない。12月21日、冬至の日の午後に行われた第六回公判の後、京都地方裁判所に隣接する弁護士会館で、喜久山弁護士による、裁判の論点解説が行われた。聴衆は二十人ほどだっただろうか。

聴衆の中にいた青井被告は、唐突に立ち上がると、隣に座っていた婚約者の手を取り、おもむろに登壇した。聴衆が、何が起こっているのか考える暇もなく、たちまち二人は熱い抱擁と接吻を交わした。ブラジルでは当たり前の挨拶だが、日本人は、公衆の面前では、まず、このような行為は行わない。聴衆は呆気にとられていた。二人は、いまここで、婚姻届にサインするのだと、高らかに宣言した。

なぜこのタイミングなのか。無罪を勝ちとった祝いに、あるいは獄中結婚という話はあるが、これはまた想定外の事態であった。

さらに、この裁判所結婚に相応しく、証人として、喜久山弁護士が指名された。そして、もうひとりの証人として、私が指名された。寝耳に水だった。私は公的には裁判には何もかかわってなかったし、祝いも何も用意していない。さすがに前科はないが、離婚歴もあり、こと家庭生活においては人生の先輩だといえるほどの資格もない。

そもそも、婚姻届における証人とは何であるのかも、よく知らなかった。さいわい、隣にいた法律の専門家、喜久山弁護士に、証人の意味を聞くことができた。婚姻届における証人とは、両者が結婚するという意志のあることを確認する、それ以上のものでも、それ以下のものではないと教わった。私は二人に結婚の意思があるのかを聞いて確かめ、婚姻届にサインした。せめてものサプライズとして、たまたま持っていたトンパ文字で掘られた印鑑を押した。

婚姻届は、夫婦いずれの出身地でも居住地でもない、しかし、そう遠くない将来、国産アヤワスカ文化発祥の地として理解されるであろう、京都市、中京区役所に提出され、受理された。



CE2021/03/15 JST 作成
CE2021/04/03 JST 最終更新
蛭川立