DMTea Ceremony Case

アヤワスカ茶が争われている最初の裁判

茶禅一味 ー第二回公判・第四回公判ー

2020年7月に行われた第2回公判では、以下のような問答が交わされた。

検察官は主張した。「2020年3月3日の逮捕時には、被告人の尿中にDMTが検出されたが、5月と6月の尿中には、DMTは検出されなかった。これは、被告人が2月26日にDMTを含有する茶を施用した物的証拠として、整合性がある」

弁護人は反論した。「体外から摂取されたDMTは、MAOIと併用しても、急速に代謝される。およそ12時間以内には、尿中に排泄されるDMTの濃度は、内因性DMTの濃度の変動範囲と区別できなくなる。かりに2月26日に茶を施用したという被告人の供述が事実であったとしても、6日後に被告人の尿からDMTが検出されたことは、被告人が茶会で茶を施用したことの物的証拠にはならない」

刑事裁判における弁護人の反論というのは、ときに詭弁のような主張になる。しかし、裁判というのは、あくまでも、供述よりも、物的証拠のほうを重視する。

日本における薬物犯罪の多くが覚醒剤メタンフェタミンの濫用である。メタンフェタミンは体内では生合成されないし、体内に取り入れてから一週間程度は、検出可能な濃度で、尿中に排泄される。だから、京都府警は、薬物=覚醒剤=一週間ぐらいで逮捕して証拠を押さえる、という、公式どおりに行動したのではないかと、私は推測している。

青井被告は、検察官の指摘に対して、以下のように反論した。

私が、2020年2月26日に、友人宅で、ミモザ・テヌイフローラのお茶を飲んだことは、認めます。
 
しかし、これまでの主張のとおり、お茶が「麻薬であるDMTを含有する水溶液」であるという点は、争います。
 
このとき私が飲んだお茶の中に、本当にDMTが含まれていたかどうかは、わかりません。ふつう、お茶にDMTが含まれているかどうかは、DMT酔いを感じることによってしか、わかりません。
 
そして、私は訓練によって、お茶を飲まなくても脳内でDMTを合成し、酔うことができるようになりました。だから、お茶にDMTが含まれていたかと問われても、よくわからない、と言うほかありません。

接見のとき、青井被告は「松果体レーニング」という瞑想法によって、自力で内因性DMTを生合成できるようになった、と言っていた。たとえDMTの作用を感じたとしても、茶に由来する外因性DMTの作用と、瞑想に由来する内因性DMTの作用は、同じDMTの作用である以上、区別できない。

つまり、これが「茶禅一味」である。

検察官が苛立っているのがわかった。

彼は、内因性DMTとは何であるのかが理解できないのか、あるいは、国家公務員が脳内に麻薬等を所持等していた場合の懲戒処分は、免職である[*1]ことを知って、それを恐れていたのかもしれない。

脳の中でDMTを生合成したことがない者が、まず被告人に石を投げればよい[*2]



さらに、10月に行われた第4回公判では、以下のような問答が交わされた。

検察官は主張した。「もしDMTを体内で合成できるなら、わざわざ茶を点てて、体外から摂取する必要はないはずだ」

青井被告は、検察官の指摘に対して、以下のように反論した。

この意見は、瞑想や長年の禅の修行によって得られる境地こそが本物であり、サイケデリックスで簡単に行ける世界は偽物であるという議論に、よく似ています。
 
DMTは、低酸素状態で脳が瀕死の状態になったときに、脳細胞を保護し、生命機能を維持するために、大量に分泌されます。それが臨死体験として体験されます。つまり、自力で大量のDMTを生合成するためには、自らの身体にも精神にも、大変な負荷をかけなければならないということです。
 
さらに、禅や瞑想の過程で、禅病や魔境、スピリチュアル・エマージェンシー、つまり霊的危機状態と呼ばれる事故が起こる危険性については、宗教者たちによって、繰り返し注意喚起されてきました。修行の途上においては、身体的変調、幻覚やせん妄、非論理的思考のような精神的変調に陥ることが、よくあるのです。
 
お茶を飲むことは、何十年も瞑想や禅の修行を続けてきた人と同じ境地を、二時間だけ経験し、通常どおりの意識に戻ることを可能にします。その後の社会生活にもまったく支障をきたしません。
 
もちろん、瞑想や長年の禅の修行のほうが、より深い境地にたどりつけるのかもしれませんし、そのような実践を行ってきた先達のことを尊敬しています。
 
しかし、今まさに、精神的に悩み苦しんでいる人たちにとって、これから何十年も修行を積むような余裕はありません。
 
私は、安全性に配慮しながらお茶を飲み、サイケデリック体験を得られるような文化を醸成することが人々の役に立つという信念のもとに、活動してきました。

インドで始まった上座仏教は、迷いから解脱するためには、自らが瞑想をしなければならないという、自力、難行の教えである。これは正論である。しかし、煩悩に迷える多くの凡夫にとって、そのような瞑想修行は、ほとんど不可能である。

その後、大乗仏教という宗教改革が起こった。大乗仏教は、他力、易行の教えを発展させ、上座仏教を「小乗仏教」と呼んで、批判した。「小乗(Hīnayāna)」とは、少数の人しか救うことができない「小さな乗り物」という意味であり、「大乗(Mahāyāna)」とは、多数の人を救うことができる「大きな乗り物」という意味である。

初公判で青井被告は、自らの活動を「菩薩」にたとえた。菩薩とは、大乗仏教の概念で、すでに迷いから解脱できるのにもかかわらず、あえて現世にとどまり、迷える人々が解脱するのを助ける存在のことである。

つまり茶人とは菩薩であり、茶会とは菩薩行なのである。



CE2021/04/03 JST 作成
CE2021/04/04 JST 最終更新
蛭川立

*1:懲戒処分の指針について(平成12年3月31日職職―68)(人事院事務総長発)」『人事院

*2:これは「ヨハネによる福音書」8章7節の語句を、比喩として用いたものであり、聖書の言葉を意図的に歪曲したものではない。ギリシア語原文は「Nestle-Aland Novum Testamentum GraeceNovum Testamentum Graece: Nestle Aland 28th Revised Ed. of the Greek New Testament, Standard Edition」を参照した。