DMTea Ceremony Case

アヤワスカ茶が争われている最初の裁判

著者の見解

新型コロナウイルス感染症による緊急事態下で、日本で最初となる、アヤワスカの合法性を争う裁判が始まった。

しかし、このことを、たいがいの日本人に話しても、南米の先住民族が使用している幻覚植物のことなど、ほぼ誰も知らない。また、日本をはじめ、非西洋圏は、サイケデリックカウンターカルチャーも経験していないので、サイケデリックスという名前ぐらいは聞いたことがあっても、危険な薬物の一種だというぐらいの認識しかないのが普通だ。

日本では理解されないと思い、欧米の人たちと連絡をとってみたが、訴えられたのはダイミか?UDVか?と聞かれる。そんな組織的な裁判ではない。ある植物オタクの若い男性が、日本にも自生しているDMT植物をネットで販売して、逮捕され、起訴された。そして、そう説明すると、また不思議がられる。

仮にそれが違法行為だったとしても、わざわざ起訴されて裁判になるのはなぜか。欧米先進国なら、そんな個人的な売買は普通に行われていて、それが良いわけではないが、他にも犯罪が多すぎて、取り関わっている暇もない。犯罪の少ない日本でも、事情は、そう大きく違わない。せいぜい注意されて終わるか、逮捕されても起訴まではされない。無警告で逮捕するのも、良いやりかたではない。

青井被告がインターネットを通じて、うつ病に効くという薬草を売り、買って飲んだ大学生が健康被害に遭い、だから薬機法で訴えられた。青井被告は加害者であり、大学生は被害者である。最初、私はそう思ったのだが、違った。青井被告も大学生も、麻薬及び向精神薬取締法違反という理由で訴えられた。被害者であるはずの大学生は、青井被告の共犯者とされたという。これには、まったく納得がいかなかった。

ではなぜ起訴されたのか。それはわからないし、まさにそれがこの事件の謎である。日本の司法は、精密司法と呼ばれていて、逮捕されてから起訴するまでの間に、精密な取り調べが行われる。それゆえ、起訴された被告人のうち、99.9%に有罪判決が下るのだと学んだ。裁判は、厳密な儀礼的行為となっている。この、精密に完成されたシステムが、戦後の日本の、きわめて安定した社会を守ってきた。

これは、あくまでも私の推理にすぎないが、まだ経験の浅い、若い検事が、起訴すべきではない容疑者を、勢い余って起訴してしまったということらしい。といって彼女自身は、経験不足だっただけで、任務には忠実だった。日本の薬物犯罪は、ほとんどが覚醒剤だから、DMTもまた、新種の覚醒剤と勘違いしたのではないかと思う。じゅうぶんに酌量すべき、更生の余地のある、若さゆえの過ちであろう。そう書いてしまうと、なぜか検察官と被告人が逆転してしまう。しかし、そうではない。検察庁は、公的な組織だから、構成員個人の失敗は、組織全体の過失となってしまう。任務を忠実に実行した個人を責めることはできない。

いっぽう、被告人のほうも、この種の事件では、普通は反省し、執行猶予つき、つまりは事実上の無罪放免で終わるはずなのに、彼は、自分の行為は病める人の救済だと言って譲らない。といって、そこには強烈な宗教的なパッションはない。裁判は法というルールに則ったスポーツだから、フェアプレーをしなければならないという論理で、争い続けている。つまり彼は、日本の安全を保障してきた精密なシステム自体には異議を唱えていない。むしろ、敬意を払っているといえる。

この完成された官僚制、99.9%精密なシステムは、それが正常に作動している間は、きわめて優秀な安全装置として機能するが、0.1%の誤作動は想定外である。綿密なシステムほど、想定外の事態に対応できないという脆弱さがある。

精神展開薬が見せる、超越的な世界には、世俗的な社会秩序の維持をおびやかす、潜在的な危険性がある。しかし、今回は、その危険性を知った上で、国家が取り締まったのではない。だから、争点が曖昧なのである。

ここでは、できるだけ事件を客観的に記録に残したい。この事件は、国家権力による不当な弾圧との闘い、被害者の悲しみ、推理小説のような謎解き、カルト宗教の狂気など、わかりやすい物語によって記述するのが難しい。読者は退屈な思いをするかもしれないが、その、ある種の物語性の欠如こそが、現代日本の文化の物語なのかもしれない。

たとえば、青井被告が開発した茶は、南米のアヤワスカ茶ではない。アヤワスカ・アナログである。アカシアやミモザなど、雑草としても生えているような植物と、個人輸入可能なMAOIサプリメントの組合せである。ハーブとケミカルという、異なる文脈の、場当たり的な組合せのようにみえて、じつは、身近にあるものを最も合理的に組み合わせたブリコラージュなのである。

青井被告は、担当検事が、彼を誤って起訴したのではないかと語っている。彼女は、決まったとおりの手続きに従って仕事を進めるのは得意なようだったが、薬物=覚醒剤暴力団、個人的な初犯=反省=不起訴、といった公式どおりに当てはまらない、青井被告のようなケースを扱いかねて、パニックを起こしてしまったのではないか、とも語っていた。これは、社会的には、強迫的なまでに精密になりすぎた日本の官僚システムの問題ともとらえられるし、その強迫を心理学化すれば、発達障害という流行病の症状のようにもみえる。それはまた、検事と同世代の青井被告の「心の理論」による投影かもしれない。

精神展開薬には抗うつ作用があるとして注目されてきているが、じつは日本では、定型的なメランコリー型うつ病は減少し、その病状は非定型化しているという。科学史を辿れば、憑霊現象が日常だった社会が近代化し、精神医学と統合失調症が、あたかもセットのように登場した。うつ病SSRIなどの抗うつ薬がセットで流行したのは、1990年代から2000年代である。その後は、大人の発達障害という病の「発見」と「流行」が起こった。精神疾患のかなりの部分が内因的であるのにもかかわらず、いまだにバイオマーカーが発見されておらず、だから精神疾患は、診断という相互行為から、社会的に構築されてしまう。

客観的に見て退屈だといっても、日系日本人の、中年男性の、人類学者という視点からの解釈である。この事件の背後には、未解読の豊かな意味があるのかもしれないのに、私が見過ごしているのかもしれない。だからこそ、この記録を公にしたい。多くの文化に属する人たち、あるいは未来の人たちが、この事件を、私とは異なるパラダイムで読み解いてくれることを、そして可能なら、共に議論できることを期待している。



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CE2021/03/21 JST 作成
CE2021/09/22 JST 最終更新
蛭川立