普化振鈴

アヤワスカ茶道

私が報道番組の取材を受けた2008年に、知人から、自分も奈良で行われていたサント・ダイミの礼拝に参加したことがあると聞いた。私が会いに行くと、彼は、礼拝で使われていた聖歌集を見せてくれた。そこには、ブラジルでよく聞いた、聖ミカエルなどのポルトガル語の歌の他に、日本語の聖歌が追加されていた。

私は日本での礼拝に興味を持ったが、彼によると、奈良での活動は、もう行われていないという。取り締まられて禁止されたわけではない。サント・ダイミという会員制の組織があるわけでもなく、活動は個人の自由裁量に任されていて、日本各地で、あたかもリゾーム状に離合集散を繰り返しているのだというが、それは本家本元のブラジルでも同じだ。

日本で宗教団体だとかいうと閉鎖的で反社会的なイメージが強いが、ブラジルは違う。小さな宗教団体が分岐と統合、生成と消滅を繰り返している。いろいろな宗教の集会に出入りすることが日常生活の一部になっている。その自由と寛容が、ブラジルの精神である。

その4年前から、私は裏千家の師匠に弟子入りして、茶道と、その背後にある禅仏教の思想を学んでいた。師匠は前衛的な若い男性で、それなら、日本で「侘びアヤワスカ」という茶会を催してはどうかと言われたが、私は、それは無理だと断った。法律の問題ではない。アヤワスカ茶を客人に振る舞えるようになるには、それなりの人格の陶冶というものが必要だ。

このときには、私は茶道についてのエッセイを書いており、日本の茶道や、南太平洋のカヴァ茶、あるいは南米のマテ茶やアヤワスカ茶など、薬草茶の儀礼的な使用という視点から人類学的に論じたものである。以下は2009年に日本で出版された小論からの抜粋である[*1]

アマゾンの先住民が治療儀礼に使用していたアヤワスカ茶が、アフリカ系労働者の文脈に置き換えられて、解放の神学となった。アヤワスカ茶系宗教団体の中でも、バルキーニャがアマゾン地区限定であるのとは対照的に、サント・ダイミはサンパウロなどの大都市で中産階級の間に広がっていたインド・仏教ブームと結びつき「自己を見つめる」という瞑想的な色彩を強く帯びるようになる。さらに、そこを起点に欧米や日本に向かって展開していくなど、世界的な広がりを見せている。

日本のサント・ダイミが奈良や京都[*2]といった古都を中心に活動しているというのもまた象徴的である。無節操ともいえるほどの多様性と寛容さを持ったブラジル文化というポテンシャルが、こうした新しい文化の生成を可能にしているのだ。
 
サント・ダイミの聖歌は、もとのポルトガル語版が約百五十曲あるが、さらに日本語版ではオリジナルが二十曲ほど追加されている。
 
春は光差して 花が開いて
新しい命が 雪をとかす
夏は暑い胸と 熱い思いが
あの大空を 焦がしていく
秋は愛と光が 豊かに実り
みんなで分かち合える
冬は静かに 枯れていこうよ
雪がしんしんと積もる

 
(サント・ダイミ 日本版聖歌5番「春夏秋冬」Shavdo作、より)
 
義のために戦う大天使ミカエルの垂直的な躍動性から、水平的な四季の循環そのものに世界の摂理を感じ取る日本的感性への変容。もはや「サイケデリック」という言葉から連想される、渦巻く極彩色というイメージはまったく捨象され、あたかも禅画のような「侘び」「寂び」の美学が、ここに芽生えはじめている。

このShavdo ーヴェーダに出てくる音の神ー というサンスクリットの名を持つ人物は、あるときはインド、あるときは日本、またあるときはブラジルと、尺八を吹きながら諸国を行脚しているという。尺八とは、中世の日本で使用されるようになった、竹から作られた管楽器で、寂しげな音色を響きわたらせる、虚無僧のシンボルである。虚無僧、つまり「『無』の僧」とは、托鉢しながら諸国を行脚していた、普化宗[*3]の禅僧のことであり、ときに虚無僧は詩歌も詠んだ。

現代の日本の文化の中で、伝統的な禅や仏教は、西洋の人々が想像するほどに、人々の精神生活には大きな影響を与えていない。とりわけ都市に住む人々にとって、仏教寺院は観光地であり墓地である。だから、およそ仏教などとは無縁で育ったはずの若い世代である青井被告が、自分の活動を仏教、とりわけ臨済禅だと言ったことに、私は驚いたのである。

しかし現在、インド哲学から派生した仏教思想は、東アジアを経由し、アメリカナイズされ、かたやブラジルの都市部に浸透し、かたや日本に逆輸入されている。私もまた逆輸入された仏教思想やインド哲学に興味を持つようになった世代である。

証人尋問へ

京都アヤワスカ茶会事件は、前例のない裁判であり、その見通しは不明である。もし京都地方裁判所が有罪という判決を出せば、青井被告は、大阪高等裁判所に上告すると言っている。また、京都地方裁判所が無罪という判決を出せば、検察側が大阪高等裁判所に上告するだろう。そこでも結論が出なければ、東京にある最高裁判所で争われることになる。

4月以降の公判では、検察側と弁護側の双方から証人尋問が行われる予定である。

もし、専門家証人として裁判所から出頭を命じられれば、私は、アヤワスカ茶会が、真摯な宗教行為であることを、証言するつもりである。

アヤワスカ茶はアマゾン川上流域の先住民族が宗教儀礼に用いてきたものであり、日常的な嗜好品としては使われてこなかった。ブラジルではカトリックと習合し、アヤワスカ茶の施用は政府公認の教会でのみ合法的に使用されており、反社会的な組織とは関係がない。

青井被告は、初公判で、アヤワスカ・アナログ茶の茶会が、自然宗教の実践であり、また大乗仏教における菩薩行でもあると主張した。これは、日本の宗教的風土が、基層文化としての自然崇拝と、インドから中国を経て伝わった大乗仏教とのシンクレティズムであることに対応している。そして、この日本の宗教文化は、アマゾンの先住民族の社会と類似しており、基層文化としての自然崇拝と、南欧から伝わったカトリックとのシンクレティズムであるという並行関係にある。

また、接見で、青井被告は、自分の茶会の思想は臨済宗だと私に語った。茶道とは、臨済宗の思想にもとづき、日本で発達した儀礼的実践である。

もし、茶とは何か、と問われれば、証言台で、私は、茶とは、まったく単純であり、かつ、まったく真摯な一期一会だと答えたい。

茶とは、ただ、湯を沸かし、そこに植物を入れ、それを飲むことである。



CE2021/03/15 JST 作成
CE2021/03/16 JST 最終更新
蛭川立

*1:蛭川立「密林の茶道」黒川宗五編『新しい茶道のすすめ』。ただし、先のエッセイでは紙幅の都合で省略した二番の歌詞も載せている。

*2:京都で(青井被告とは無関係に)アヤワスカの茶会が催されていたというのは伝聞だが、ペルーとのつながりがあるとも聞いた。もしそうなら、ブラジルの宗教運動とは別での活動である。

*3:臨済宗から分化した宗派で、臨済と同時代のトリックスター、普化に由来する。詳細は『臨済録』を参照のこと。