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新年度・裁判長交代
「ぶっちゃけ、争点がぼんやりしているのかなーっ、て、思うんですよね」
新年度から着任した安永武央裁判長は、冒頭から、東京の若者が使うような、ユーモラスな俗語で自説を展開しはじめた。こんな小さな裁判に一年以上もかける必要はない。争点を簡単に整理して、早く判決を出したい、という気持ちが感じられた。
「そのメディ・ティー。お茶。お茶っていうと、なにか、こう、ペットボトルに入っているお茶のイメージなんですけど、ま、私、実物は見たことがないですけど。そのお茶、アカシア・コンフサのお茶を規制するのなら、同じ植物、沖縄の相思樹ですか、相思樹から作られる染料なんかにも、波及効果が及ぶかもしれないな、と」
芭蕉布の相思樹染
青井被告がアカシア・コンフサを水に溶かして作った、麻薬成分であるDMTを含むお茶を取り締まるのであれば、沖縄に自生するアカシア・コンフサ、つまり相思樹を水に溶かして作った染料も取り締まられなければならない。染料が取り締まられてこなかったのに、青井被告のお茶を取り締まるなら、これは罪刑法定主義に基づく明確性の原則に反するので、そういう明快な理由で無罪判決を出したい。裁判長の語りには、そのような意味合いも感じられた。
それを察した検察官は、沖縄では相思樹を染料として使う伝統はほとんど失われており、またその染料とメディ・ティーとは「化学的性状」が異なるのだ、それは科学的常識だと反論した。
「科学的常識と言われてもですね、どういうことだか、私、理系の知識ありませんからね」と裁判長は言った。それなら沖縄の染料職人を京都まで呼んできて、相思樹の染料を造ってもらい、京大の薬学部あたりでで、その染料とメディ・ティーの化学的性状の違いを分析してみたらいい、という、突拍子もない提案をした。
「それは想定外です・・・」検察官は当惑した。「まさか沖縄から職人を証人として呼ぶわけにはいきませんし・・・」
結審の後で報じられた相思樹染めの問題(沖縄タイムス、2022年4月12日)
医療行為は正当行為か
それから裁判長は、明確性の原則の次の争点である、正当行為(刑法35条)についても、自らの法解釈を早口でたたみかけた。
「麻薬でも病気を治すために使ったから正当行為だというのなら、たとえばモルヒネ。モルヒネは麻薬ですけど、許可をとって使えば、痛み止めとか、病気の治療に使えるわけですよね。許可を取って使えばいいんですよ」
つまり、かりにDMTを含有するお茶が麻薬として取り締まられるとして、たとえ青井被告がうつ病を治したかったからといっても、無許可で麻薬を使用したことは、正当行為ではない、違法性阻却事由にはならない、というのである。
宗教行為は正当行為か
ここで、弁護人は異議ありと発言した。青井被告が茶を施用したことが正当行為と見なされるべきなのは、それが医療行為ではなく、宗教行為だからである。つまり、病気を治すためではなく、悩んでいる人に宗教体験を通じて楽になってもらうためだったのだ、という意見を述べた。真摯な宗教行為であるから、それは正当行為であり、違法性は阻却される。これは、初公判以来、弁護人の一貫した主張である。
日本における「宗教裁判」
真摯な宗教行為が正当行為であり違法性が阻却されたという判例は、日本ではほとんど存在しない。
ある教会の牧師が、暴力事件を起こして逃走中の男性を、教会にかくまった[*1]。これは、容疑者の逃走を手伝ったわけだから、違法行為である。しかし、その牧師は、容疑者に説教をして、彼を回心させた。その牧師の行動は違法行為だが、同時に真摯な宗教行為であり、その違法性は阻却されたという判例がある。
また、ある宗教者が祈祷によって病を癒やそうとして患者を死亡させた事件があった[*2]。医師ではなく宗教者が病を癒やそうとした結果でも、過失による死亡であれば、真摯な宗教行為として、正当行為として違法性は阻却されうるかといえば、それが死亡という、著しく社会的な良識に反する結果を招いたのであれば、それは正当行為ではない、という判例である。
「ヒーリング」と「崇高な光」
では、青井被告の「お茶会」は、どうだったか。2020年2月26日に行われ、6日後の3月3日に青井被告が麻薬施用で逮捕されるきっかけとなった、「ヒーリングお茶会」においては「ヒーリング」が行われていた。この「ヒーリング」というのは、亭主である青井被告がアヤワスカ茶を一服し、「イカロ」という、精霊の歌を歌いながら、集まった人たちの心身の不調を調整するというものである。このときは、お茶会の客たちは、アヤワスカ茶を飲んでいない。
これは、アマゾンの先住民族が行う治療儀礼をまねたものである。先住民族の治療儀礼においては、シャーマンだけがアヤワスカ茶を飲む場合と、クライエントたちもアヤワスカ茶を飲む場合がある。
心身の不調を癒やすための「ヒーリング」は、現代の日本では一般的である。医師ではない人たちが、医療行為ではない文脈で行っている。むしろ、スピリチュアルな作用によって不調が癒やされるものであり、日本語の「スピリチュアル」の概念は独特ではあるが、民俗宗教にもとづく民間療法が現代化したものだともいえる。あるいはそこで薬草のハーブティーが服用されたとしても、無免許で医療行為をおこなったという理由で規制されないのが一般的である。
また、自らアヤワスカ茶を服用し、救急搬送された大学生は、自分でうつ病と自殺念慮を治療してしまった。しかし、大学生は、供述の中で、自分はお茶を飲んだ後で苦しみ始め、意識を失い、救急搬送されたと報じられたのは間違いだと言っていた。じっさいには、善と悪、自己と外界などの二元論的分節が消滅し、驚いていたところで救急搬送され、そして救急車の中で、あらゆる二元論的分節が消滅したとき、崇高で白い光が出現した。彼の自己は「ただ、ある」状態となり、もう一つの視点が、ただ、その状態を観ていた、という。まるで、サーンキヤ哲学における、プラクリティとプルシャのようである。自殺したいという思いが緩和したというよりは、自殺したいと思っていた彼自身の自己が消えてしまった。それ以来、彼の自殺念慮は消えてしまったままである。
大学生は、この体験を新聞記者や検察官に、できるだけわかりやすい言葉で伝えようとしたのだが、どうしても事故で救急搬送されたという誤解が解けなかったと供述していた。そして、法廷で証言する機会があれば、その、美しすぎるあまりに畏れを抱いてしまうような崇高な感覚を、自らの言葉で語りたい、とも供述している。
ブラジルでは、サンパウロ大学病院で、ダイミ茶が治療抵抗性うつ病や自殺念慮に著効であるという臨床試験が行われており、その論文の邦訳は、すでに弁護側から検察側に提出されたが、抑うつ状態の治療のプロセスは、何日も抗うつ薬を飲み続けて、徐々に症状が改善していくというものではなく、一杯のダイミ茶を服用することで、わずか数時間後に、言語による形容不能な超越体験が起こり、そして歪んだ自己の解体と再構築が行われる。これは、治療というよりは、回心である。ブラジルでは、サント・ダイミ教会の活動は医療行為としてではなく、政府に認可された宗教法人だけが使用できる、いっしゅの宗教行為だと考えられている。
欧米圏における「宗教裁判」
日本ではDMTを含む茶が、それも宗教的な文脈で裁判になったことはない。
そこで弁護人は、日本国外で、アヤワスカ茶を儀礼的に使用する宗教団体が無罪とされた判例を、独自に日本語に翻訳したものを、早口で読み上げた。
一つ目の判例は、オランダのサント・ダイミ教会に対する、アムステルダム地方裁判所の判決である。ある女性の自宅で「ダイミ茶」と大麻が含まれる煙草が押収された。大麻は国際法で規制されているが、オランダの国内法においては、非犯罪化されていた。つまり、違法だが取り締まらない、ということである。
「ダイミ茶」には、国際条約で麻薬として規制されているDMTが含まれていた。オランダの、いわゆる麻薬一般を扱う法律である阿片法では、DMTを含有する植物もまた違法である。では、DMTを含む植物から造られた茶は麻薬として規制されるのだろうか。
オランダの厚生省は国連麻薬取締委員会に問い合わせのFAXを送った。1971年の国際条約では、DMTという物質は規制されているが、DMTを含むいかなる植物も、その植物から造られる「煎じ茶(decoction)」も、国際条約としては規制していないと解釈するが、ただし、それぞれの国が、国際条約よりも厳しい国内法を作ることは妨げない、という回答がFAXでオランダ厚生省に戻ってきた。
これは、海外の地裁レベルでの判例ではあるが、このINCBの見解は、日本における法解釈に、重要な意味を持つ。なぜなら、日本の麻薬及び向精神薬取締法には、DMTは違法だが、DMTを含む植物は合法と明文化されている。しかし、その中間形態であるお茶が合法か違法かは明文化されていない。国内法に書かれていないものについては、「煎じ茶」は規制されないというINCBの見解が、1971年国際条約を批准した日本国内でも、基準を示すことになる。これが、弁護人の主張である。
ただし、オランダのアヘン法では、DMTを含む植物も規制されているので、そうすると、その植物から造られる茶も違法である。
それなら、サントダイミ教会の礼拝は違法なのか。サント・ダイミ教会は、礼拝において使用するダイミ茶は、善男善女が神と交感する秘蹟そのものであり、礼拝には不可欠な要素だと主張した。サント・ダイミ教会の教義においては、ダイミ(私に与え給え)と呼ばれるアヤワスカ茶それ自体が神性を内在しており、その神性を体内に取り入れることによって、信者は神を直接体験するのである。これは、キリスト教の礼拝として正統なのだろうか。裁判所は、信教の自由という観点から、無罪判決を言い渡した。
これが西洋近世の宗教裁判であれば、正統とされるローマ・カトリック教会からして、新大陸から持ち帰られた、インディオが飲用している幻覚茶を服用し、集団で踊るような礼拝は、悪魔的であり、異端だと見なされたであろう。
けれども、現代のサント・ダイミ教会の論理としては、たとえば正統とされるローマ・カトリック教会が、その礼拝の中で、ワイン、つまりエチルアルコールを含有する陶酔性物質を含む水溶液を、これはキリストの血だという奇妙な理屈づけで服用するのであるから、お互いさまだ、いや、アルコールこそ依存性を持つ濫用薬物であり、逆にダイミ茶はアルコール依存症等の患者を回心させることさえできる、奇跡の薬草茶なのだ、と主張する。
そこで裁判所が二つの宗派の調停を試みる。ローマ・カトリック教会の権威において、サント・ダイミ教会を異端とし、かりに信者を火刑等に処すという、そのような私刑は、近代的法治国家においては、あってはならないことである。なるほどサント・ダイミ教会は礼拝で麻薬成分を含む茶を飲用するかもしれないが、正統的なカトリック教会もまた礼拝では合法ではあるが有害性もある酒を飲用する。政教分離の国家においては、礼拝で酒を飲む宗教も、礼拝で幻覚茶を飲む宗教も、かりに後者が違法な麻薬を含んでいたとしても、いずれも自由な活動が保障されなければならない。これが、信教の自由である。
次に、弁護人は、二つ目の判例の日本語訳を、やはり早口で朗読した。アメリカの連邦最高裁では、UDV(弁護人は、これを英語ふうに、ユーディーブイと発音した)の活動が、同様に信教の自由という観点から無罪となったという判例である。いわゆる、ゴンザレス裁判である。
弁護人がブラジルの宗教運動についての判例を読み上げるのには、五分程度の時間を要しただろうか。書記官は、どの程度を書きとめただろうか。
日本の裁判所で、サント・ダイミやUDVが真摯な宗教行為だと、法廷という場で、日本語で語られた。それは小さな事件かもしれないが、小さな歴史的事件であった。
もっとも、検察官も裁判官も、キリスト教であるとか、サント・ダイミ教会だとかいうことには、ほぼ関心がないように見えた。弁護人の早口を、時計を気にしながら、ただ聞き流しているようだった。
宗教裁判のような面倒な話には係わりたくない、医療行為かどうかも議論するのは面倒だ、メディ・ティーと相思樹の染料の化学的性状を比較するという、化学的に明快な争点で、客観性の高い判決を出したいと、裁判長はそう考えているのだろう。
裁判長が閉廷を宣言した。
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