DMTea Ceremony Case

アヤワスカ茶が争われている最初の裁判

著者の見解

新型コロナウイルス感染症による緊急事態下で、日本で最初となる、アヤワスカの合法性を争う裁判が始まった。

しかし、このことを、たいがいの日本人に話しても、南米の先住民族が使用している幻覚植物のことなど、ほぼ誰も知らない。また、日本をはじめ、非西洋圏は、サイケデリックカウンターカルチャーも経験していないので、サイケデリックスという名前ぐらいは聞いたことがあっても、危険な薬物の一種だというぐらいの認識しかないのが普通だ。

日本では理解されないと思い、欧米の人たちと連絡をとってみたが、訴えられたのはダイミか?UDVか?と聞かれる。そんな組織的な裁判ではない。ある植物オタクの若い男性が、日本にも自生しているDMT植物をネットで販売して、逮捕され、起訴された。そして、そう説明すると、また不思議がられる。

仮にそれが違法行為だったとしても、わざわざ起訴されて裁判になるのはなぜか。欧米先進国なら、そんな個人的な売買は普通に行われていて、それが良いわけではないが、他にも犯罪が多すぎて、取り関わっている暇もない。犯罪の少ない日本でも、事情は、そう大きく違わない。せいぜい注意されて終わるか、逮捕されても起訴まではされない。無警告で逮捕するのも、良いやりかたではない。

青井被告がインターネットを通じて、うつ病に効くという薬草を売り、買って飲んだ大学生が健康被害に遭い、だから薬機法で訴えられた。青井被告は加害者であり、大学生は被害者である。最初、私はそう思ったのだが、違った。青井被告も大学生も、麻薬及び向精神薬取締法違反という理由で訴えられた。被害者であるはずの大学生は、青井被告の共犯者とされたという。これには、まったく納得がいかなかった。

ではなぜ起訴されたのか。それはわからないし、まさにそれがこの事件の謎である。日本の司法は、精密司法と呼ばれていて、逮捕されてから起訴するまでの間に、精密な取り調べが行われる。それゆえ、起訴された被告人のうち、99.9%に有罪判決が下るのだと学んだ。裁判は、厳密な儀礼的行為となっている。この、精密に完成されたシステムが、戦後の日本の、きわめて安定した社会を守ってきた。

これは、あくまでも私の推理にすぎないが、まだ経験の浅い、若い検事が、起訴すべきではない容疑者を、勢い余って起訴してしまったということらしい。といって彼女自身は、経験不足だっただけで、任務には忠実だった。日本の薬物犯罪は、ほとんどが覚醒剤だから、DMTもまた、新種の覚醒剤と勘違いしたのではないかと思う。じゅうぶんに酌量すべき、更生の余地のある、若さゆえの過ちであろう。そう書いてしまうと、なぜか検察官と被告人が逆転してしまう。しかし、そうではない。検察庁は、公的な組織だから、構成員個人の失敗は、組織全体の過失となってしまう。任務を忠実に実行した個人を責めることはできない。

いっぽう、被告人のほうも、この種の事件では、普通は反省し、執行猶予つき、つまりは事実上の無罪放免で終わるはずなのに、彼は、自分の行為は病める人の救済だと言って譲らない。といって、そこには強烈な宗教的なパッションはない。裁判は法というルールに則ったスポーツだから、フェアプレーをしなければならないという論理で、争い続けている。つまり彼は、日本の安全を保障してきた精密なシステム自体には異議を唱えていない。むしろ、敬意を払っているといえる。

この完成された官僚制、99.9%精密なシステムは、それが正常に作動している間は、きわめて優秀な安全装置として機能するが、0.1%の誤作動は想定外である。綿密なシステムほど、想定外の事態に対応できないという脆弱さがある。

精神展開薬が見せる、超越的な世界には、世俗的な社会秩序の維持をおびやかす、潜在的な危険性がある。しかし、今回は、その危険性を知った上で、国家が取り締まったのではない。だから、争点が曖昧なのである。

ここでは、できるだけ事件を客観的に記録に残したい。この事件は、国家権力による不当な弾圧との闘い、被害者の悲しみ、推理小説のような謎解き、カルト宗教の狂気など、わかりやすい物語によって記述するのが難しい。読者は退屈な思いをするかもしれないが、その、ある種の物語性の欠如こそが、現代日本の文化の物語なのかもしれない。

たとえば、青井被告が開発した茶は、南米のアヤワスカ茶ではない。アヤワスカ・アナログである。アカシアやミモザなど、雑草としても生えているような植物と、個人輸入可能なMAOIサプリメントの組合せである。ハーブとケミカルという、異なる文脈の、場当たり的な組合せのようにみえて、じつは、身近にあるものを最も合理的に組み合わせたブリコラージュなのである。

青井被告は、担当検事が、彼を誤って起訴したのではないかと語っている。彼女は、決まったとおりの手続きに従って仕事を進めるのは得意なようだったが、薬物=覚醒剤暴力団、個人的な初犯=反省=不起訴、といった公式どおりに当てはまらない、青井被告のようなケースを扱いかねて、パニックを起こしてしまったのではないか、とも語っていた。これは、社会的には、強迫的なまでに精密になりすぎた日本の官僚システムの問題ともとらえられるし、その強迫を心理学化すれば、発達障害という流行病の症状のようにもみえる。それはまた、検事と同世代の青井被告の「心の理論」による投影かもしれない。

精神展開薬には抗うつ作用があるとして注目されてきているが、じつは日本では、定型的なメランコリー型うつ病は減少し、その病状は非定型化しているという。科学史を辿れば、憑霊現象が日常だった社会が近代化し、精神医学と統合失調症が、あたかもセットのように登場した。うつ病SSRIなどの抗うつ薬がセットで流行したのは、1990年代から2000年代である。その後は、大人の発達障害という病の「発見」と「流行」が起こった。精神疾患のかなりの部分が内因的であるのにもかかわらず、いまだにバイオマーカーが発見されておらず、だから精神疾患は、診断という相互行為から、社会的に構築されてしまう。

客観的に見て退屈だといっても、日系日本人の、中年男性の、人類学者という視点からの解釈である。この事件の背後には、未解読の豊かな意味があるのかもしれないのに、私が見過ごしているのかもしれない。だからこそ、この記録を公にしたい。多くの文化に属する人たち、あるいは未来の人たちが、この事件を、私とは異なるパラダイムで読み解いてくれることを、そして可能なら、共に議論できることを期待している。



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CE2021/03/21 JST 作成
CE2021/09/22 JST 最終更新
蛭川立

Kyoto DMTea Ceremony Case -The First Trial to Judge Ayahuasca in Japan -

What tea is, boiling water, putting plants, drinking it.

- Sen no Rikyū[*1]

Contents

Bodhisattva - The First Trial

Author's point of view

Kyoto DMTea Ceremony Case

Kyoto DMTea Ceremony Case -Time series of events-

Issues in the Kyoto Ayahuasca Tea Ceremony Trial

Saudade do Brasil - My Voyage -

Everything has Nothingness - The First Interview -

Drunk Days, Dream Death - The Second Interview -

Why DMT?

Tea and Zen are of One Taste -The Second and Fourth Trial -

E pur si Muove -The Third Trial -

Fifth and subsequent trials

Ayahasca as Tea Ceremony




This is an essay based on actual case. English texts are powered by Google translate.

I am writing this manuscript in Japanese, and I am translating these texts into English by myself - powered by Google translate -. I have the copyright of these texts written in Japanese and English . These texts will be translated into Portuguese. In January of the next year, a book collected papers on globalization of ayahuasca tea in post modern world, will be published in Brazil. These texts are the manuscript preparing for one chapter of the book.



Copyright 16-09-2020/2563 JST
Last Revsed 21-03-2021/2564 JST
(C) Tatsu HIrukawa

*1:1522-1591, the founder of tea ceremony in Japan.

普化振鈴

アヤワスカ茶道

私が報道番組の取材を受けた2008年に、知人から、自分も奈良で行われていたサント・ダイミの礼拝に参加したことがあると聞いた。私が会いに行くと、彼は、礼拝で使われていた聖歌集を見せてくれた。そこには、ブラジルでよく聞いた、聖ミカエルなどのポルトガル語の歌の他に、日本語の聖歌が追加されていた。

私は日本での礼拝に興味を持ったが、彼によると、奈良での活動は、もう行われていないという。取り締まられて禁止されたわけではない。サント・ダイミという会員制の組織があるわけでもなく、活動は個人の自由裁量に任されていて、日本各地で、あたかもリゾーム状に離合集散を繰り返しているのだというが、それは本家本元のブラジルでも同じだ。

日本で宗教団体だとかいうと閉鎖的で反社会的なイメージが強いが、ブラジルは違う。小さな宗教団体が分岐と統合、生成と消滅を繰り返している。いろいろな宗教の集会に出入りすることが日常生活の一部になっている。その自由と寛容が、ブラジルの精神である。

その4年前から、私は裏千家の師匠に弟子入りして、茶道と、その背後にある禅仏教の思想を学んでいた。師匠は前衛的な若い男性で、それなら、日本で「侘びアヤワスカ」という茶会を催してはどうかと言われたが、私は、それは無理だと断った。法律の問題ではない。アヤワスカ茶を客人に振る舞えるようになるには、それなりの人格の陶冶というものが必要だ。

このときには、私は茶道についてのエッセイを書いており、日本の茶道や、南太平洋のカヴァ茶、あるいは南米のマテ茶やアヤワスカ茶など、薬草茶の儀礼的な使用という視点から人類学的に論じたものである。以下は2009年に日本で出版された小論からの抜粋である[*1]

アマゾンの先住民が治療儀礼に使用していたアヤワスカ茶が、アフリカ系労働者の文脈に置き換えられて、解放の神学となった。アヤワスカ茶系宗教団体の中でも、バルキーニャがアマゾン地区限定であるのとは対照的に、サント・ダイミはサンパウロなどの大都市で中産階級の間に広がっていたインド・仏教ブームと結びつき「自己を見つめる」という瞑想的な色彩を強く帯びるようになる。さらに、そこを起点に欧米や日本に向かって展開していくなど、世界的な広がりを見せている。

日本のサント・ダイミが奈良や京都[*2]といった古都を中心に活動しているというのもまた象徴的である。無節操ともいえるほどの多様性と寛容さを持ったブラジル文化というポテンシャルが、こうした新しい文化の生成を可能にしているのだ。
 
サント・ダイミの聖歌は、もとのポルトガル語版が約百五十曲あるが、さらに日本語版ではオリジナルが二十曲ほど追加されている。
 
春は光差して 花が開いて
新しい命が 雪をとかす
夏は暑い胸と 熱い思いが
あの大空を 焦がしていく
秋は愛と光が 豊かに実り
みんなで分かち合える
冬は静かに 枯れていこうよ
雪がしんしんと積もる

 
(サント・ダイミ 日本版聖歌5番「春夏秋冬」Shavdo作、より)
 
義のために戦う大天使ミカエルの垂直的な躍動性から、水平的な四季の循環そのものに世界の摂理を感じ取る日本的感性への変容。もはや「サイケデリック」という言葉から連想される、渦巻く極彩色というイメージはまったく捨象され、あたかも禅画のような「侘び」「寂び」の美学が、ここに芽生えはじめている。

このShavdo ーヴェーダに出てくる音の神ー というサンスクリットの名を持つ人物は、あるときはインド、あるときは日本、またあるときはブラジルと、尺八を吹きながら諸国を行脚しているという。尺八とは、中世の日本で使用されるようになった、竹から作られた管楽器で、寂しげな音色を響きわたらせる、虚無僧のシンボルである。虚無僧、つまり「『無』の僧」とは、托鉢しながら諸国を行脚していた、普化宗[*3]の禅僧のことであり、ときに虚無僧は詩歌も詠んだ。

現代の日本の文化の中で、伝統的な禅や仏教は、西洋の人々が想像するほどに、人々の精神生活には大きな影響を与えていない。とりわけ都市に住む人々にとって、仏教寺院は観光地であり墓地である。だから、およそ仏教などとは無縁で育ったはずの若い世代である青井被告が、自分の活動を仏教、とりわけ臨済禅だと言ったことに、私は驚いたのである。

しかし現在、インド哲学から派生した仏教思想は、東アジアを経由し、アメリカナイズされ、かたやブラジルの都市部に浸透し、かたや日本に逆輸入されている。私もまた逆輸入された仏教思想やインド哲学に興味を持つようになった世代である。

証人尋問へ

京都アヤワスカ茶会事件は、前例のない裁判であり、その見通しは不明である。もし京都地方裁判所が有罪という判決を出せば、青井被告は、大阪高等裁判所に上告すると言っている。また、京都地方裁判所が無罪という判決を出せば、検察側が大阪高等裁判所に上告するだろう。そこでも結論が出なければ、東京にある最高裁判所で争われることになる。

4月以降の公判では、検察側と弁護側の双方から証人尋問が行われる予定である。

もし、専門家証人として裁判所から出頭を命じられれば、私は、アヤワスカ茶会が、真摯な宗教行為であることを、証言するつもりである。

アヤワスカ茶はアマゾン川上流域の先住民族が宗教儀礼に用いてきたものであり、日常的な嗜好品としては使われてこなかった。ブラジルではカトリックと習合し、アヤワスカ茶の施用は政府公認の教会でのみ合法的に使用されており、反社会的な組織とは関係がない。

青井被告は、初公判で、アヤワスカ・アナログ茶の茶会が、自然宗教の実践であり、また大乗仏教における菩薩行でもあると主張した。これは、日本の宗教的風土が、基層文化としての自然崇拝と、インドから中国を経て伝わった大乗仏教とのシンクレティズムであることに対応している。そして、この日本の宗教文化は、アマゾンの先住民族の社会と類似しており、基層文化としての自然崇拝と、南欧から伝わったカトリックとのシンクレティズムであるという並行関係にある。

また、接見で、青井被告は、自分の茶会の思想は臨済宗だと私に語った。茶道とは、臨済宗の思想にもとづき、日本で発達した儀礼的実践である。

もし、茶とは何か、と問われれば、証言台で、私は、茶とは、まったく単純であり、かつ、まったく真摯な一期一会だと答えたい。

茶とは、ただ、湯を沸かし、そこに植物を入れ、それを飲むことである。



CE2021/03/15 JST 作成
CE2021/03/16 JST 最終更新
蛭川立

*1:蛭川立「密林の茶道」黒川宗五編『新しい茶道のすすめ』。ただし、先のエッセイでは紙幅の都合で省略した二番の歌詞も載せている。

*2:京都で(青井被告とは無関係に)アヤワスカの茶会が催されていたというのは伝聞だが、ペルーとのつながりがあるとも聞いた。もしそうなら、ブラジルの宗教運動とは別での活動である。

*3:臨済宗から分化した宗派で、臨済と同時代のトリックスター、普化に由来する。詳細は『臨済録』を参照のこと。

京都アヤワスカ茶会事件 ーDMT植物茶が争われる日本初の裁判ー

この記事には係争中の裁判についての記述が含まれており、中立的な観点を欠いている可能性があります。事実関係にもとづく検証が必要とされています。





この記事は実際に起こった事件を元にした、逐次更新中のエッセイです。実際の事件に対し、やや脚色している部分や、著者なりの解釈ががあります。

*1:ほぼ原文のママなので、もうすこし整理します。

*2:ほぼ原文のママなので、もうすこし整理します。

*3:脚色過剰につき改訂中

*4:脚色過剰につき改訂中

*5:加筆修正中

第五回以降の公判

2020年11月の第五回公判から、2021年3月の第八回公判までの4回の公判では、検察側と弁護側の短いやりとりが行われるだけで終わる、という、膠着状態が続いている。

2021年1月8日から3月21日まで、日本の大都市圏は、再び緊急事態宣言下となった。裁判は継続されたが、実質的な進展がない。傍聴人は減った。青井被告の出番もない。

検察側は、弁護側に対し、主張を裏づける証拠を出すように要求した。弁護側は、検察側に対し、主張を裏づける学術論文を13本、提出した。そのうち11本は、英文の論文であった。検察側は、英文の論文については、全文を日本語に翻訳しなければ正しく理解できないと主張した。弁護側は、全文を和訳するのは無理であるし、英語の論文は全文を提出しているので問題はないと主張した。

けっきょく、英語で書かれた論文については、抄録と主な図表だけを和訳することとなった。

論文の選定から翻訳までを行ったのは、喜久山弁護士、青井被告本人、そして、私と、それから5人ほどの協力者である。私は、必ずしも弁護側だけに協力したいわけではない。刑事裁判なのだが、被害者はおらず、そもそも、検察側と弁護側の議論は対立していない。対立しているようにみえるのは、ようは、検察側の不勉強による誤解である。喜久山弁護士は、初公判のときが初対面だったが、「検察側を教育してやりましょう」と言って私を口説いた。私は大学教授の社会的活動の一環として、薬物問題についての教育啓蒙活動に加わることにしたのである。

喜久山弁護士は、薬物事件が専門でもないのに、とても熱心に勉強してきた。それに対し、検察官たちは、ほとんど何も学ぼうとしていないようにみえる。仕事が忙しすぎてそんな勉強の時間もないが、といって、起訴を取り下げるなどということは、さらに厄介な大仕事になってしまう。私は、青井被告の行動には間違いも多々あったと考えているし、だから検察側の主張にも理があるとも思う。しかし、我々の血税によって生活と仕事を与えられている検察官に、謙虚に学ぼうという姿勢がないだけでも、私が彼らを信頼することができない、じゅうぶんな理由になった。

この裁判は、DMTという物質やアヤワスカという薬草茶について、公式に議論が行われる、想定外の、しかし非常に貴重なきっかけとなった。むしろ、検察側の背後にいる厚生労働省科学捜査研究所などの専門家たちに、それを理解してほしいと考えている。

論文の翻訳作業は、できるだけ効率よく分担して行ったが、最終的には監訳者として、私がすべての翻訳結果を推敲した。分析化学から精神医学、研究に用いられた統計的分析方法など、私も、本業のかたわらで、必死で勉強した。京都大学から東京大学編入し、心理人類学の方面に転向した私にとって、ミクロな生物学を学ぶことは、修士課程まで在学した京都大学で学んだことを思い出し、そして三十年にわたる生命科学の進歩に驚き、遡って学びなおす作業でもあった。京都地裁は、鴨川を挟んで、京大の対岸にあるから、公判のたびに、訪れるたびに、志学を胸に上洛したときのことも思い出させてくれた。

第八回公判では、ようやく和訳つき、13本の論文をすべて揃えて提出することができた。しかし、検察側の意見は、すべて不同意だった。どの論文のどの議論に問題があるのかは、いっさい示されずに、すべての論文に信頼性がないという理由で、すべてが却下された。さすがの裁判官も、いよいよ様子がおかしいと思いはじめたようだ。

青井被告は相変わらずのポジティブ思考で、これ、三十年早すぎましたね、と言って笑っている。彼が解説してくれたところによると、担当の立川検事は、翻訳資料を受けとろうとしたらしいのだが、上司から、不同意にしたほうがいいという指示があったらしい。この京都地裁で、同意した上で無罪判決が下されれば、次の大阪高裁で争うときに、不利になるから、という理由らしい。どういう意味だろうか。相変わらず、私には裁判の理屈というものがよくわからない。

どうやら、この京都地方裁判所で、青井被告に無罪判決が下ることは避けられなくなってきたということになり、京都地方検察庁、あるいは日本の検察組織の内部に、小さな揺れが起こり始めたらしい。それは私にも理解できた。

知識に対する謙虚さを欠いた人々が、洛外へと去ろうとしている。たとえ政治の中心が東京に移っても、京都はなお日本の文化を生成する場所であってほしい。そして、京都地方裁判所には、まだ読まれるには少し早すぎる研究成果が、日本語として保存されることになる。


国内外の研究者にも広く呼びかけたが、意外に反応は弱かった。日本でも、東京大学や、国立民族学博物館など、国立の専門研究機関をはじめとして、アヤワスカなど、中南米の先住民の薬草文化を、現地調査している人類学者は多い。精神展開薬の抗うつ作用に注目している医者や臨床家も多い。すでに、ケタミンやその異性体臨床試験が行われ、製薬会社が流通の仕組みを作りはじめた。しかし、大学教授や医者などの協力者は、誰も現れなかった。仕事が忙しすぎて他のことまで引き受けている暇はない、という理由が多く、それは、もっともだった。もし私が参加していなければ、専門研究者で、協力者は誰もいなかっただろう。

なぜこの裁判が注目されないのだろう。物語性の希薄さについては、別の場所で論じたので、繰り返さない。

国外(出身者)のほうが反応がよい。もとよりDMT研究つながりだったDavid Luke(グリニッジ大学)、Andrew Gilmore(沖縄科学技術大学院大学)からは、専門的な助言をもらっており、さらに、裁判をきっかけにして、Steven Barker(ルイジアナ州立大学)とも知り合うことができた。欧米では、ブラジル系のアヤワスケイロ宗教が訴えられ、裁判になっている。ただし、この日本での裁判が、ブラジル系宗教団体とも、どんな団体とも関係のない個人が起こした小さな事件であることは、説明しても理解されにくい。

しかし、背景の事情がどうであっても、人口一億人の先進国である日本の裁判所で、DMT含有茶が合法か、かりに違法だとしても宗教行為であれば認められるという判断が出れば、その判例は、国際的な影響力を持つ。



第五回公判以降、裁判はあまり進展していない。しかし、青井被告も役者である。傍聴者を飽きさせない。12月21日、冬至の日の午後に行われた第六回公判の後、京都地方裁判所に隣接する弁護士会館で、喜久山弁護士による、裁判の論点解説が行われた。聴衆は二十人ほどだっただろうか。

聴衆の中にいた青井被告は、唐突に立ち上がると、隣に座っていた婚約者の手を取り、おもむろに登壇した。聴衆が、何が起こっているのか考える暇もなく、たちまち二人は熱い抱擁と接吻を交わした。ブラジルでは当たり前の挨拶だが、日本人は、公衆の面前では、まず、このような行為は行わない。聴衆は呆気にとられていた。二人は、いまここで、婚姻届にサインするのだと、高らかに宣言した。

なぜこのタイミングなのか。無罪を勝ちとった祝いに、あるいは獄中結婚という話はあるが、これはまた想定外の事態であった。

さらに、この裁判所結婚に相応しく、証人として、喜久山弁護士が指名された。そして、もうひとりの証人として、私が指名された。寝耳に水だった。私は公的には裁判には何もかかわってなかったし、祝いも何も用意していない。さすがに前科はないが、離婚歴もあり、こと家庭生活においては人生の先輩だといえるほどの資格もない。

そもそも、婚姻届における証人とは何であるのかも、よく知らなかった。さいわい、隣にいた法律の専門家、喜久山弁護士に、証人の意味を聞くことができた。婚姻届における証人とは、両者が結婚するという意志のあることを確認する、それ以上のものでも、それ以下のものではないと教わった。私は二人に結婚の意思があるのかを聞いて確かめ、婚姻届にサインした。せめてものサプライズとして、たまたま持っていたトンパ文字で掘られた印鑑を押した。

婚姻届は、夫婦いずれの出身地でも居住地でもない、しかし、そう遠くない将来、国産アヤワスカ文化発祥の地として理解されるであろう、京都市、中京区役所に提出され、受理された。



CE2021/03/15 JST 作成
CE2021/04/03 JST 最終更新
蛭川立

日本の地理と歴史

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日本の地図

北緯35度線、東経135度線を追うと、その交わるところに、日本標準時UTC+9)の基準となる明石市を発見できる。日本標準時とブラジリア標準時(UTC+3)の時差は、ちょうど12時間あり、明石の対蹠点、南緯35度、西経45度の交わるところは、リオグランヂ・ド・スル、ポルト・アレグレの近海に存在する。

古代より明石は海運の要衝であり、ブラジルに渡った日系人の多くは、明石の東にある、神戸港から船出した。船出を待つ日本人たちが滞在していた建物は、神戸港を見下ろす丘の上に建っており、今では日本・ブラジル協会の本部となっている。

起源神話が伝えるところによると、日本の国は、明石の対岸にある淡路島から始まったという。歴史上の記録によると、統一国家としての日本の政治的センターは、6世紀までに奈良に出現し、その後、首都は8世紀に京都に遷都し、19世紀に東京に遷都した。被告人が生まれた伊勢は、第二次大戦まで、日本の国教であった神道の祭祀上のセンターであった。

現在、日本の政治的、経済的、文化的センターは東京にあるが、これから語られる物語は、東京遷都以前の古都、京都から始まる。

あなたは、東経135度線と、北緯35度線の交わるところに、日本を見つけることができる。

この交点にある明石市天文台日本標準時の基準である。それはブラジリア標準時と12時間の時差がある。その対蹠点、つまり西経45度、南緯35度の交わる点は、リオグランヂ・ド・スル、ポルト・アレグレの沖合に存在する。

古代より明石は海運の要衝であり、ブラジルに渡った日系人の多くは、明石に隣接する、神戸から船出した。船出を待つ日本人たちが滞在していた建物は、神戸港を見下ろす丘の上に建っており、今では日本・ブラジル協会の本部が置かれている。

起源神話が伝えるところによると、日本の国は、明石の対岸にある淡路島から始まったという。歴史上の記録によると、統一国家としての日本の政治的センターは、6世紀までに奈良に出現し、その後、8世紀に、京都に都が築かれた。19世紀に東京に遷都するまで、京都は日本の首都でありつづけた。そこは、今でも文化的なセンターである。

京都アヤワスカ茶会裁判の争点

0、尿中のDMT ー茶に由来するかー

青井被告の尿検査

  • 2020年2月26日に催された茶会で、青井被告は、ミモザの茶をモクロベミドと共に服用したと供述している。
  • 2020年3月3日、青井被告が逮捕されたときに、青井被告の尿が採取された。分析の結果、尿中にDMTが検出された。
  • 2020年5月18日、青井被告の拘留中に、青井被告の尿が採取された。分析の結果、尿中にはDMTは検出されなかった。
  • 2020年6月19日、青井被告が再逮捕されたときに、青井被告の尿が採取された。分析の結果、尿中にはDMTは検出されなかった。

検察側の主張

  • 3月3日に採取された尿からDMTが検出されたことは、青井被告が2月26日の茶会でミモザ茶を施用した証拠である。
  • 5月18日と6月19日に採取された尿中にDMTが検出されなかったことは、拘留中にはアカシア茶やミモザ茶を施用していなかったから当然である。
  • ゆえに、3月3日にDMTが検出されたのは、2月26日に飲んだミモザ茶に由来するという推察することができる。

弁護側の反論

  • 人間の体内では内因性DMTが生合成されており、その一部は代謝されずに尿中に排泄される。
    • 合成・排泄される内因性DMTの量は大きく変動する。
      • 排泄される内因性DMTの量には、日内変動があるかもしれない。朝に多く、夜に少なくなる、という研究もあるが、はっきりしない。
  • 人間がDMTを経口摂取すれば、すぐに分解されて、インドールー3ー酢酸などに変わる。DMTをRIMA(可逆性モノアミン酸化酵素A阻害薬)であるモクロベミドと共に服用しても、代謝されずに尿中に排泄される量は、6〜12時間以内に、内因性DMTに由来するDMTと区別がつかなくなる。
  • ゆえに、ミモザ茶を服用した6日後に採取された尿中にDMTが検出されたとしても、青井被告がミモザ茶を服用した物的証拠にはならない。

検察側の反論

  • もし人間の体内でDMTが合成されるのなら、体外からDMTを摂取する必要がないはずである。

青井被告の反論

  • 人間が十分な量のDMTを生合成するためには、長期にわたる瞑想修行が必要である。
  • 現在苦しんでいる人たちには、長期にわたる瞑想修行を行う余裕がない。ゆえに、体外からDMTを摂取する必要がある。

1、麻薬の定義 ー茶は麻薬かー

検察側の主張

  • ミモザ茶は、ミモザに含まれる麻薬であるDMTを水によって抽出したものであり、それは麻薬である。
  • 青井被告は、DMTの薬効を享受するために茶を製造しており、これは過失ではなく、故意である。

弁護側の反論

2、罪刑法定主義 ー薬草協会の茶をだけを取り締まれるかー

弁護側の主張

  • DMTは多くの植物に含まれている。
  • DMTを水に溶かしたものが流通し、服用されている。
    • DMTを含むミカン属のミカンやレモンを水に溶かしたものは、ジュースとして広く流通しているのに、麻薬として取り締まられていない。
    • DMTを含むアヤワスカ茶は、ブラジルに由来する宗教団体で使用されているのに、麻薬として取り締まられていない。
  • 青井被告が製造したアカシア茶やミモザ茶だけを取り締まるのであれば、その理由を示すべきである。
  • もし、理由がないのに、青井被告が製造した茶だけを取り締まるのであれば、憲法が定める罪刑法定主義の、明確性の原則に反し、違憲である。

検察側の反論

    • オレンジジュースは広く流通しているかもしれないが、ほとんどの人は、そこにDMTの薬効を求めていないから、それは麻薬とはいえない。

弁護側の反論

  • DMTを含むヤマハギを水に溶かしたハギ茶は、日本では伝統的に服用されており、ノイローゼや婦人病に効果がある薬として、薬効を享受するために使用されてきたのに、麻薬として取り締まられていない。

3、正当行為 ー茶会は真摯な宗教行為かー

弁護側の主張

以上、0〜3の争点に関して、2020年3月の時点で、検察側からは明確な反論が行われていない。とくに1〜3については、2020年6月に行われた初公判で、弁護人が主張してから、9ヶ月が経っている。


著者の考察

著者は、この事件を、学術的に公正な立場から考察したいと考えている。しかし、検察官が青井被告を起訴した理由には誤りが多いと考えざるをえない。また、弁護側の主張のほとんどに対して、検察側が論理的な反論をしていないのは、実質上、弁護側の主張の大半を認めている、つまり、検察側は、自らの主張が誤りであると認めているに等しいと考えざるをえない。

これは、私の推理であり、被告人や弁護人の主張とは、必ずしも同じではない。

尿中DMTについて

  • 検察官は、DMTを、覚醒剤であるメタンフェタミンと同様の物質だと誤解していたのではないか。
    • 日本で乱用される規制薬物の多くが、メタンフェタミンである。
    • メタンフェタミンは、服用後、10日ぐらいは、尿中に排泄される。
    • 検察官は、人体の内部でDMTが合成されることを知らなかったのではないか。

麻薬の定義について

  • 茶を麻薬として規制するかどうかは、法律によって定められるべきである。
    • 日本の麻薬及び向精神薬取締法では、麻薬原料植物以外の植物は、規制されていない。
    • 日本の麻薬及び向精神薬取締法では、麻薬原料植物以外の植物から作られた茶については、言及されていない。
      • このような茶についての判例は存在しない。
    • 国内法は、国際条約やその解釈よりも厳しい規制が可能である。
  • ゆえに、茶が合法かどうかについては、裁判官が判断することであろう。

罪刑法定主義について

  • 弁護側の主張の通り、青井被告の茶だけが規制される理由はない。

正当行為について

  • 青井被告の茶会が、真摯な宗教行為であるかの判断は難しい。
  • 南米の先住民族やブラジル由来の宗教運動において、アヤワスカ茶は、もっぱら宗教儀礼の中で用いられてきた。青井被告の茶会が、この文化、あるいは仏教思想に基づいて行われたのであれば、宗教行為だといえる。
    • とくにブラジルでは、アヤワスカ茶は認可された宗教団体の施設内で使用する場合のみ合法化されている。ただし、日本にはそのような法律も判例もない。
  • アヤワスカ茶が精神疾患を改善するとしても、青井被告は医師等ではないので、治療行為は正当行為ではない。
    • ただし、その治療行為の背景に宗教的な思想があれば、宗教行為だといえる。



CE2021/03/15 JST 作成
CE2021/07/03 JST 最終更新
蛭川立