京都。
この、1200年前に造られた古都は、外部からの邪悪な力の侵入を防ぐため、周囲を山に囲まれた盆地に造られた。
正直なところ、住みやすい場所ではない。盆地なので、風通しが悪い。夏は暑く、冬は寒い。この街の先住者たちは、この街の伝統を誇り、よそ者を受け入れないところがある。
京都地方裁判所は、京都御所の南門のはす向かいに建てられている。六月だというのに、気温は三十度を超えている。
京都御所は、平安京、つまり「平和の都」の北端に建造された。御所には東西南北の四個の門があり、もっとも重要なのは南の門であった。古代中国では、皇帝は不動の「天道」を象徴する北極星を背にして立ち、南門を通して人間界を俯瞰する、天と地の媒介者だと考えられていた。
皇帝は人民に対して命令することができる絶対的な権力を持っていた。しかし、その力は皇帝自身のものではない。皇帝は、宇宙の法則の代弁者にすぎない。もし皇帝が人民を正しく導くことができなくなれば、宇宙の法則によって皇帝は罷免され、新しい皇帝が選ばれる。「革命」とは、「命令が変革される」という意味である。
かつての中国の皇帝とは違い、現在の日本の天皇は象徴である。社会秩序の基本は憲法である。人民は法に従わなければならないが、もしその法が憲法に反していれば、法は改正されなければならない。
2020年6月8日。2020年というのはイエスが産まれたときから数えて2020年目という意味だが、仏暦では2563年である。ブッダが涅槃に入ってから2563年目という意味である。終わりが始まりなのである。
裁判所に入るときには、係員に荷物を預け、ボディーチェックを受ける。法廷内では、録音が禁じられている。
裁判長が開廷を宣言した。
裁判長は、温厚そうな初老の紳士であった。
検察官が冒頭陳述を行った。
検察官は、新進気鋭といった雰囲気の女性であった。
「被告人は京都で茶会を催した。被告人が点てた茶は、チャ、つまり、カメリア・シネンシスの茶ではなく、アカシア・コンフサ、および、ミモザ・テヌイフローラの茶、いわゆる、アヤワスカ・アナログ茶である。この茶は、麻薬である、三、二、ジメチルアミノ、エチル、インドール、別名、DMTの水溶液である。麻薬及び向精神薬取締法、六十六条一項、二項、六十七条二項、二十七条一項違反」
弁護人が意見陳述を行った。
弁護人もまた、新進気鋭といった雰囲気の男性であった。
「検察官はアカシア・コンフサ、および、ミモザ・テヌイフローラから点てられたお茶は、麻薬であるDMTの水溶液であると主張する。しかし、お茶は、麻薬及び向精神薬取締法、別表第一、七十六号、ロ、が、麻薬の定義から除外している、麻薬原料植物以外の植物、及びその一部分である。
かりに、DMTを含有する水溶液を「麻薬」とするなら、DMTを含む植物の水溶液、たとえば萩茶やオレンジジュース、あるいは人間の体液も麻薬となる。これらが麻薬ではないのに、被告人が点てたお茶だけを麻薬だとするのは、明確性の原則に反し、また憲法三十一条の罪刑法定主義に反する。従って、被告人を処罰するのは憲法違反である。
DMTは、1971年麻薬取締条約において、国際的な統制下に置かれている。そして、日本は、この国際条約を批准している。また、2001年、オランダで、サント・ダイミが訴訟を起こしたときに、国際麻薬統制委員会は、DMTを含有する植物、及びお茶は、国際的な統制下にはない、という見解を示している。検察官が、この、国際麻薬統制委員会の見解を改めるべきだと考えるのであれば、その根拠を示すべきである。
被告人が点てたお茶は、アヤワスカ茶という、アマゾンの先住民族が宗教儀礼に用いてきたお茶と性質が同じであり、アヤワスカ茶は、ペルー共和国の国家遺産である。かりに、被告人が点てたお茶が麻薬に該当するとしても、茶会とは、一期一会の真摯な宗教行為である。これは刑法三十五条が定める正当行為であり、違法性は阻却される」
次に、裁判長は、被告人に、罪状認否を求めた。
「あなたには、黙秘権があります。あなたは、言いたいことを言わない権利があります。しかし、あなたが言ったことは、すべて裁判の証拠となります。以上のことを、理解しましたか」
「はい。理解しました」
被告人は、すこし微笑んだ。そして立ち上がった。彼は、麻薬の売人というよりは、まるで漫画の世界から出てきたような、眼鏡をかけたオタク青年だった。
私は、私がお茶を点てたことは、認めます。私は、私がお茶会を催したことは、認めます。しかし、私は、お茶が、麻薬として規制されているDMTであることについては、争います。
アヤワスカというお茶は、南アメリカの先住民族が、彼らの自然宗教の伝統の中で使用してきたものです。それは、お茶を飲み、変性意識状態を能動的にコントロールし、精霊とコンタクトし、世界のありかたを再認識し、精神を癒やすというアートです。
仏教では、この世で生きていることは、それ自体が錯覚だと考えるそうです。だから、人間の生きづらさも、すべて錯覚なのです。禅や瞑想は、その錯覚から自由になるための修行です。しかし、そこまでの修行をやり抜くのは、精神的にも、身体的にも、相当な苦行です。
しかし、私はお茶を飲んで、その錯覚から自由になれました。
救いを求めて救われたものは、また人を救います。それが、私がお茶会を催した理由です。冬の間は眠っていた、ひとつの種が、春には、ひとつの植物に育ちます。夏には十の花を咲かせ、秋には十の種を落とします。冬の間、眠っていた十の種は、次の春には、十の植物に育ちます。十の植物は、夏には百の花を咲かせ、秋には、百の種を落とします。
これが、ボーディサットヴァ…
「被告人」と裁判長は言った。
書記官が筆を止めた。
裁判長は言った。「法廷内では、日本語で話してください。あたなが法廷で話したことは、すべて、日本語で記録されます」
「わかりました」。被告人は続けた。
これが、菩薩の慈悲です。慈悲の心は連鎖します。
長年の瞑想によって得られる境地こそが本物であり、お茶を一服したぐらいで悟ったような気になるのは、偽物だという考えもあります。そうかもしれません。そして、私は、修行によって深い境地にたどり着いた先達のことを尊敬しています。
しかし、いま現在、悩み、苦しんでいる人たちにとって、これから何十年も修行を積むような余裕はありません。
だから、私はお茶を点てました。
お茶を裁くことはできません。
ボーディサットヴァとは仏教用語で、日本語では「菩薩」と訳される。私が理解しているかぎりでは、自らはすでに悟りを開くことができるのにもかかわらず、自らが悟る前に、まだ悟っていない人たちを助ける者のことである。
研究室の大学院生から、この事件について聞いたのは、一ヶ月前のことだった。割り当てられた弁護士は、これはまったく前例のない事件だ。そもそも、アヤワスカ茶とはいったい何かと、困惑しているらしい。
私も、日本でこんな事件が起こるとは、予想もしていなかった。
西洋諸国で、ブラジルから世界各国に広がったUDV(ウニオン・ド・ヴェジタル)やサント・ダイミが裁判を起こしているのは知っていた。彼らは、礼拝は真摯な秘蹟だと主張し、じっさい、いくつかの国と州では、彼らの活動は、信教の自由にてらして合法であるという判決が出されている。
しかし、ここは日本である。21世紀の京都に、菩薩が降臨した。その菩薩が、私の目の前で、アヤワスカ茶会は慈悲の実践だと言ったのである。
利休により集大成された茶道は、禅という、大乗仏教の思想の具現化であった。
ブラジルで、アヤワスカ茶会から新しいキリスト教が生まれてきたように、この日本で、アヤワスカ茶から新しい仏教が生まれつつあるのだと考えれば、それは驚くほどのことではないのかもしれない。
裁判長が、閉廷を宣言した。
被告人は手錠をかけられ、法廷から連れ去られた。
このように私は聞いた。