DMTea Ceremony Case

アヤワスカ茶が争われている最初の裁判

「姉み」の挑発 ー 遵法闘争としてのマゾヒズム

青井被告が「検事さんをゆるしてあげてください」といっているのは、具体的には、彼を起訴した女性検事のことを指していると思われる。これを福音書のごとく解釈し、彼を、人類の原罪を購うために十字架を背負う救世主とみるのは、行きすぎた個人崇拝だろう。

彼は「姉み」と真剣に戯れているのだし、それが青井硝子裁判の核心にあるのではないか。

マゾヒズムの「ユーモア」が法の支配を脱構築るーこれは、ドゥルーズが「過剰な熱心さ=遭法闘争」と呼んだものに対応している[*1]

逆に、マゾッホの主人公が法に服従し、その服従に満足していると紹介するだけでは舌足らずであろう。マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。
 
私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている[「過剰な熱心さ(excès de zdle)」は「遭法闘争(grève du zile)」を踏まえた表現]。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。
 
人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法が我々に禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。

 
ドゥルーズザッヘル=マゾッホ紹介』134-135[*2]

ドゥルーズは「法は《善》によって基礎づけられえず、むしろ法の形式に依拠しなければならない」[*3]と指摘しているが、青井被告もまた、起訴されたことが有罪判決を受けることだとは予想していない。DMTは麻薬であり違法だが、麻薬原料植物から除外されている植物の一部分は合法である。そしてその中間形態である「茶」もまた、なんら明文化されていないがゆえにー罪刑法定主義における明確性の原則という形式な刑法理論の隙間をぬってー向精神薬にかんする国際条約を機械的に批准した日本という法治国家、そしてそれを体現しているはずの女性検事の裏をかき挑発しているのである。裁判長が宣告するであろう「無罪」は、そのまま青井被告の「嘲笑」となるのだ。

また同時に、ドゥルーズの『マゾッホ紹介』を日本語で「紹介」している志紀島啓は、マゾヒズムを、スキゾフレニーではなく、むしろ自閉症スペクトラムの上に位置づけている[*4]。日本では2010年ごろを境に、メランコリー型うつ病の「流行」が、自閉症の「流行」へと交代したことに注意されたい。



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  • CE2022/01/11 JST 作成
  • CE2022/03/22 JST 最終更新

蛭川立

*1:ドゥルーズマゾッホ論による青井裁判の分析は、著者自身のアイディアというよりは、結審の傍聴者であったマルドロールちゃん(筆名)の「青井硝子事件についての個人的総括」からの着想である。

*2:ドゥルーズ, G. 堀千晶(訳)(2018).『ザッヘル=マゾッホ紹介ー冷淡なものと残酷なものー』(河出文庫河出書房新社, 134-135.

( Deleuze, Gilles (1967). Présentation de Sacher-Masoch : Le froid et le cruel. Les Éditions de Minuit.)

*3:ドゥルーズ, G. 堀千晶(訳)(2018).『ザッヘル=マゾッホ紹介ー冷淡なものと残酷なものー』(河出文庫河出書房新社, 137.

( Deleuze, Gilles (1967). Présentation de Sacher-Masoch : Le froid et le cruel. Les Éditions de Minuit.)

*4:志紀島啓 (2017).「 ドゥルーズと法/『マゾッホ紹介』を読む神戸芸術工科大学紀要 芸術工学2017.