まずは、被告人と話がしたい。彼は、京都の市街地から離れた、京田辺警察に留置されていた。15世紀、風狂の禅僧、一休宗純が都会の喧噪を嫌ってこの地に庵を結び、没した酬恩庵のすぐ近くである。
担当弁護士にメールを書き送った。法廷で菩薩を自称するとは、一休も吃驚である。弁護士も、割り振りで当たっただけで、もともと知っていた人物ではないという。
初接見のとき、被告人は開口一番「麻薬及び向精神薬取締法の別表第一の七十六項のロです」と、法律の条文を正確に暗唱したという。つまり「DMTという物質は法律で規制されているが、DMTを含有する植物およびその一部分は規制の対象外だと明文化されているのに、これを所持していた自分が逮捕されたのは不当だ」と主張したのだ。
弁護士は、これこそが本来の意味での確信犯だと確信したという。
新型コロナウイルス感染症の拡大で発令されていた緊急事態宣言は解除されたが、外出自粛要請は続いていた(the curfew had been imposed)。留置所での接見は叶わず、テレ面会となった。弁護士が、Skypeでつないでくれた。
液晶画面の向こうに現れたのは、法廷で見たのとはまた違う、笑顔の可愛らしい好青年だった。お騒がせしてすみません、すみません、と繰り返す彼は、とても謙虚な人物のようにみえた。
およそ「住所不定無職」「麻薬の売人」というイメージとは程遠い。
職業は、農業らしい。自分の畑に自作の小屋を建てて住んでいるのだが、なぜか住民登録がうまくいかないのだという。
私は、留置所に行き、南米での体験を書いた『精神の星座ー内宇宙飛行士の迷走録ー』という本を差し入れるつもりだったが、彼は独房に秘密のアンテナを自作し、携帯電話の電波を傍受し、拙著の電子版を手元のスマホにダウンロードしていた。
犯罪の少ない日本でも、ときどき、薬物乱用で逮捕される人がいるが、それが初犯で、組織犯罪でなければ、そして本人が反省していれば、不起訴で終わる。
だから、個人が薬物事件で起訴されたと聞いて驚いた。しかも三ヶ月も勾留され、繰り返し追起訴されている。その薬物というのが、DMTを含むアヤワスカ茶である。
知っている人にも、知らない人にも、お茶を振る舞ったのは、問題があったかもしれない。しかし、それなら薬機法で訴えられるべきだ。麻薬取締法で刑事告訴するとは、人権侵害だ。
被告人は、収監されたときに、すべての所持品を没収され、氏名さえ奪われて[*1]ただ『九番』という数字で呼ばれていた。名前というアイデンティティさえも剥奪されて数字だけの存在になる。屈辱だ。
「名前なんてどうでもいいです。自分がバリ島に行ったときには、一郎とか二郎とかいう名前の人ばかりで、それで不自由していないみたいでした。これは要するに、生まれ育った文化の問題です」
たしかにインドネシアのバリ島では、性別を問わず、生まれた順に、一郎、二郎、三郎、四郎という名前をつけて、五番目に生まれた子供には、また一郎という名前をつける[*2]。だから、街は、一郎や二郎だらけだ。
「『田辺九番』とか、ハンドルネームみたいで面白いです。でも、もっと面白くできないかと思って、ツイッターでハンドルネームを大募集しました。多数決で、自分の名前は『田辺九番、起訴太郎』に決まりました」
「九番なら『九太郎』ではないですか」
「それでは『オバ九』になってしまいます。ボクはオバケのQ太郎!それもいですね!」
こいつはアホ(louco)か?私は困惑した。
どうやら、正義感あふれる若い女性の検事が、勇み足で、インターネットを悪用して麻薬を売買する新種の組織犯罪を摘発したと勘違いした、というのが事件の実態のようだ。
「三ヶ月も拘留されるとは、懲役刑ではないのです。人権侵害です。検事のほうを訴える必要がありますね。若さゆえの過ちでした、と言わせて更生させなければ」
「検事さんをゆるしてあげてください。彼女も、何をしているのか自分でわからないみたいです(Forgive the prosecutor, for she knows not what she do., Perdoe a promotor. Ela não sabe o que faz.[*3]」
PCのモニタの中にいる青年は、人類の罪を贖うために十字架にかけられようとしている救世主なのか。それとも人をからかって楽しんでいるだけの愉快犯なのか。
「最高裁まで争う覚悟はできています」
「最高裁?」
「お茶(O Chá)は違法ではありません。憲法十三条の幸福追求権にてらして違憲です」
「そんなことをしたら、何十年かかるか。裁判費用も馬鹿にならない」
「自分が逮捕されて有名になったので、おかげさまで薬草ライフの本が増刷されました。いまパート2で獄中ライフの本を書いています。それからパート3で裁判ライフの本も書きます。三部作で売り込んでベストセラーにします。自分の推計では印税は1500万円プラスマイナス300万円ですから裁判三回分稼げます」
これは悪い冗談(sacanagem)か?
事前に調書に目を通しておいた。容疑者の言動には理解不能な部分が多いが、首尾一貫性があり、精神鑑定の必要なない、と書かれていた。
「自分は、最後まで争う決意を固めました。争うといっても、悪いことを正当化しようとしたり言い逃れしたりするつもりはありません。『法律を解釈する』という知的なスポーツに興じる、という意味です」
「スポーツ?」
「日ごろ励まし、支えてくださる全ての方に感謝するとともに、先人の方々、運営スタッフ、 そして出場全選手に敬意を払い、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々、プレーすることを誓います!」
裁判というものを馬鹿にしている。
「自分、無敵です!」
「なぜですか?」
「失うものが何もないからです」[*4]
彼の阿呆さ加減が、伝説の禅の六祖、慧能の姿と重なった。
七世紀の中国、禅の五祖弘忍のもとには、五百人の弟子たちがいた。あらゆる教典に通じた成績抜群の秀才、神秀が、五祖の後を継ぐのだろうと、誰もがそう考えていた。
しかし、神秀が「心如明鏡臺(私の心は鏡のように輝いている)」と詩を読んだとき、五祖は、自室に神秀を呼び、お前はまだまだ悟っていない、と喝破した。
さて厨房で働いていた青年、慧能は、文字の読み書きもできなかったが、神秀の詩に応えて「本来無一物」と詠んだ。それを聞いた五祖は驚き、自室に慧能を呼んだ。何とまあ、この生き菩薩様を厨房などで働かせていたとは。
誰もが自分で悟り、自分で納得するしかない。そのことを、あまねく人々に伝えなさい。仏法は以心伝心。五祖弘忍は慧能に頓悟の教えを授け、彼を六祖とした[*5]。
何も持っていないから、無敵なのである。
被告人は、両親の愛情に恵まれ、何不自由なく育った。国立の大学に進学し、微生物の培養を学んだ。顕微鏡の下で細胞が分裂していくのを見るのは面白かったが、人とうまく話すことができなかった。人と長い時間話をしていると、なぜか頭が痛くなってしまう。
大学を卒業しても、会社には就職しなかった。日本人は朝から晩まで働きすぎる。日本の会社は、人間関係が複雑すぎる。
彼は海岸で、ウニなど、シーフードになる海洋生物の養殖の仕事を始めた。しかし、2011年3月11日、日本で大きな地震が起こり、津波が彼の養殖場を流し去ってしまった。
彼は、すべてを失った。
失ったというのは正確な表現ではないかもしれない。最初から何も持っていなかったことに気づいたというほうが正しいだろうか。
それから、彼は、仕事で使っていた軽トラックの背中に屋根をとりつけて、「カタツムリ号」と名づけた。それが彼の家だった。短期でアルバイトをしながら、街から街へと移動した。
見たところ、彼はマッチョな男ではない。しかし、大学で学んだ生物学の知識が彼を助けた。貨幣経済の社会では、収入が少ない人は「食べていけない」という。そうだろうか?足下を見れば、たくさんの植物や動物たちがいる。
起きて半畳寝て一畳。水と、空気と、植物と、動物と、そして善き隣人があれば、生きていくのには何も問題はない。
日本で稲の栽培が始まったのが2000年前、内戦を経て、1500年前には、ようやく、統一国家が形成された。
中国から見れば、日本人は、遅れた周辺民族だったが、彼らは強い帝国を作るよりも、森と共生する「国家に抗する社会」[*6]を確立させていた。
日本列島に住む人々は、アマゾンの先住民族と同じように、半定住的な生活を1万年以上も続けていた。縄文人たちは、ドングリから毒を抜く方法を知っていた。イノシシを殺すときには感謝の気持ちを忘れなかった。「食べていく」のには困らなかったのだ。
彼は、食べられそうな植物を食べた。どんな植物に毒があるのかは、植物を食べている動物を見ればわかったし、ほんのすこしだけ、嗅いだり、舐めたりすれば、わかった。大学で学んだ、官能検査という方法だ。
金はなくても、知識があれば生きていける。植物についての知識(sabidoria)だ。猟銃の免許も取得し、イノシシを撃って食べた。殺された動物が、どんな気持ちだったか、考えながら、肉を解体し、感謝しながら、料理して食べた。
やがて、植物が彼に知識(sabidoria)を教えてくれるようになった。「酔い("bebederia")」を通して、彼は知恵(sabedoria)」を得た。
彼は、PCのモニタ越しに、当時のノートを見せてくれた。
ある初秋の日の午後。
道端に背の高い草が生い茂っていた。小さなピンク色の花をたくさん咲かせていた。
そっと近づくと、一つひとつの花から、かすかな歌声がきこえてくるような気がした。
毎日が実験だ。今夜の夕食は、これで実験してみよう。塩化ナトリウムと、それからコンビニで買ったグルタミン酸をたっぷり入れて、うまみを追加した。
予想どおり、美味しくはなかったが、なにか、植物の中の大事なものを身体に取り入れたという感じがした。
日が暮れて、すっかり夜になっていた。
目に飛び込んでくる街灯の光が揺らいだ。
背筋に快感が五回、六回と走った。
意識が覚醒した。世界が完璧に見える。そうとしか言いようがない。
バグを見つけた快感は、まさにこれなのだろう。
世界はバグで満ちている。ほんの少し薄皮をめくってやれば、ほらこんなにも完璧に薄ら淀んだバグが見つかるじゃないか。
目をかっと見開きつつ夜のダム湖畔をさまよう。擦れる草がとてもくすぐったい。秋虫の鳴き声が脳内でサラウンド再生される。
心地よい眠気に誘われるままに「カタツムリ号」に戻り、そのまま眠りに落ちた。
「神様や精霊は見えなかったのですか」
「神は見えません。世界が見えます」
「世界が見えるとはどういうことですか」
「事象だけが見えるということです」
「事象そのものへ!(Zu den Sachen selbst!)[*7]」
それは「現象学的判断停止(epokhế)」であり「現象学的還元[*8]」であり西田[*9]やジェームズの「純粋経験[*10]」である。「この普通とは別の形の意識を全く無視するような宇宙全体の説明は、終局的なものであることはできない」[*11]。ほんの少し薄皮をめくれば、世界は完璧な姿をあらわす。
「事象だけ」の世界はバグだらけだ。いや、生活世界(Lebenswelt)[*12]というプログラムからはみ出てしまう事象をバグとして、見ないようにして、イリーガル・ファンクション・コールが出ないようにしているのだ。
今までずっと色眼鏡をかけて生きてきたことに気づかなかっただけで、それを外しさえすれば、たちまち目の前には完璧な世界があったことを、それを忘れていただけだったということに気づいた。
あの体験以来、いつの間にか、人と話をすると頭痛がするという、不思議な持病が消えていた。
それから彼は、植物の中に含まれるサイコアクティブな物質を探求し始めた。人間には、肉体の栄養だけではなく、魂の栄養も必要だからだ。
耳を澄ませると、それぞれの植物が、それぞれの歌を歌っているのが聞こえるようになってきた。
一つの植物に、一つの歌がある。植物たちは、何を語りかけてくるのだろう。
知りたいことがあれば、Googleさんに聞けば良い。放浪生活をしていたとはいえ、Wi-Fiの圏外には出なかった。むしろ、無線でインターネットに接続できるインフラを整備してくれた文明というものに感謝した。
「自然に還れ」ではない。「技術を引き連れて、もう一度原始へ還れ」なのだ。
ネットを検索して、彼は『彼岸の時間ー〈意識〉の人類学ー(O Tempo do Higan - A antropologia da consciência -)』という、不思議な名前のブログを見つけた。
アマゾン川のジャングルに、シピボ族という少数民族がいる。その人たちは、アヤワスカというお茶を飲んで、植物の精霊と出会い、精霊の歌を聴くという。日本人の人類学者が、シピボ族の村に行って自分もお茶を飲み、精霊の世界を体験したのだという。探していたものはこれだ、と直感した。
アヤワスカという「お茶」の有効成分はN, N-ジメチルトリプタミン、DMT。IUPAC準拠化合物命名法によれば、三、二、ジメチルアミノ、エチル、インドール。たちまち分子構造が脳内で再構成された。それがセロトニン、つまり五、ヒドロキシトリプタミンと酷似するインドールアルカロイドだということは、すぐにわかった。生化学は、大学生のときに勉強した。
しかし、DMTは経口で摂取すれば消化酵素で分解されてしまう。アマゾンの先住民族たちは、このことを知っていて、DMTを含むチャクルーナという植物と、ハルミンを含むアヤワスカという植物を組み合わせてお茶を点てているという。じつによく工夫されている。彼はとても感心した。
そして、このアヤワスカ茶を、日本に自生している植物で再現しようと考えた。DMTは、あらゆる植物の中に含まれている。試行錯誤の末、アカシア・コンフサという黄色い花を咲かせる植物に出会った。アカシアの精霊は、青磁のように深く青く、団欒のように優しいオレンジの色彩を歌っていた。
モノアミンオキシダーゼ阻害薬はどうやって調達するか。これもGoogleさんに教えてもらった。通販でモクロペミドというサプリメントを買った。これをアカシアのお茶といっしょに飲み込むと、薄皮の向こうにある完璧な世界が見える。じゅうぶんな再現性がある。
彼は、仲間たちと共に、「お茶会」を始めた。
一服お茶を飲んだだけで、世界の見えかたが再構成される。世界の色彩ががもっと鮮やかになる。
やがて彼の周りにたくさんの人が集まるようになった。彼は、ひたすらお茶を振る舞い続けた。
大学を卒業して、大きな会社や役所に就職した友人たちも、やがて過労で倒れていった。肉体的に疲れてしまうよりも、自分で責任を背負いすぎて、倒れてしまう。
日本は非常に治安が良い。殺人事件の件数は、人口10万人あたり、わずかに0.3人である[*13]。これは、ブラジルの自殺率、7人[*14]の十分の一である。しかし、日本で暮らしていて自殺する確率は、今は人口10万人あたり、15人まで減ったが、彼が大学を卒業した20年前には、27人だった[*15][*16]。これは、ブラジルで暮らしていて殺される確率とほぼ同じである[*17]。いったい、どちらの社会で暮らすほうが危険なのだろう。
「自殺」という言葉は適切ではない。大半は「うつ病」という病気による「病死」である。
うつ病は、現代日本の国民病であり、適切に処置しなければ、死に到る病である。しかし、真面目な人ほど、視野が狭くなってしまう。うつ病の人は、自分に責任があるのだと悩むので、医者に行こうと思わない。医者も忙しくて、一人の患者の話を五分しか聞くことができない。SSRIのような抗うつ薬を飲んでも、治るのは半分である。
ブラジルには、サント・ダイミという、歌って踊るお茶会があることも知った。大学病院と共同研究をしているということも、ネット上で見つけた。論文は英語で書いてあったけれど、Googleさんのパワーで、日本語に翻訳できた。
アヤワスカ茶は、たった一日でうつ病を治してしまう[*18]、ふつうの人が飲んでも、精霊さんたちと仲良くなれ、人生がもっと楽しくなる[*19]。
お茶は「抗うつ薬」ではない。お茶は、幻覚剤でもない。むしろ、お茶は、人間を、人生という幻覚から覚醒させる。お茶こそが、覚醒剤なのである。
3月に彼が逮捕されたとき、新聞は、お茶会に参加した大学生が意識を失い、救急車で搬送されたと報道した。そのお茶には、麻薬が含まれており、お茶を振る舞った男が逮捕されたと、そう書かれていた。
しかし、弁護士に聞いたところでは、大学生は意識を失ったわけではないという。それは逆で、意識が覚醒しすぎてしまったらしい。
大学生は、慢性的なうつ病に苦しんでいた。得体のしれない自殺念慮に苦しんでいた。だから、お茶を飲んだ。死にたかったからではなく、生きたかったからだ。数時間後、たちまち人生の宇宙的意味を悟った。生きていることそれ自体に、圧倒的に絶対的な意味があった。圧倒的な意味に圧倒された。隣で見ていた友人が、その圧倒されている姿に驚き、救急車を呼んでしまったのだという。もちろん、病院に行ってもなんの異常も見つからなかった。というより、なぜか死にたいという気持ちが消えてしまった。
その後、大学生がどうなったのかについては、よくわからない、未成年なので、情報は家庭裁判所で保護されている。
私は、医者でもないのに、シャーマンに弟子入りして学んだわけでもないのに、自己流で何百人もの人にお茶を飲ませるから、摘発されたのではないか、と問うた。
彼は素直に若気の至りを認めた。これを機会に、病院や大学と協力していきたいという。
そして「でも、いっしょなら、悲しさ半分楽しさ二倍、って、ポケモン(Pokémon)の主題歌です」と笑った。
彼は大学で科学を学んだらしいが、思想は学んでいないらしい。アニメは観ているらしいが、本を読んでいないらしい。
出典はポケモンではない。キケロだ。「友情は幸福をさらに素晴らしいものにするし、不幸を分かちあうことでその重荷を軽減する」[*20]
このように私は聞いた。
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CE 2020/10/01 JST 作成
CE2020/10/11 JST 最終更新
蛭川立
*1:
*2:一郎、二郎、云々は、被告人の独特のセンスによる和訳で、バリ語では「Wayan, Made, Nyoman, Ketut」である。これは、数詞とは無関係である。「したがって、個人を定義する出生順位体系は、個々人の名前が「徐々に変化する」ことを表わしている。それは、人びとを四つの全く内容のない呼び方で分けている。つまりこの四つの呼び方は本当の意味での序列を決めるわけではない(というのは、一つの共同体の中でワインやクトゥトという名をもつ者に概念的あるいは社会的な意味はまったくないからである)。それらはまた(たとえばワヤンたちは、ニョマンやクトゥトとは違った共通の心理的・精神的特徴をもつという考え方もないので)それぞれの順位名をもつ個々人の何か具体的な特徴を表わすのでもない。またそれぞれ何ら意味をもたない(それらは数や数に由来する語でもない)これらの出生順位名は、実生活の上できょうだいの地位とか序列を表わするのではない。ワャンは第一子であるように第五子(あるいは第九子)であるかも知れない。それに伝統的な人口構成において―高い出産率に加えて高い乳幼児の死亡率と死産率のために―マデやクトゥトが多くのキョウダイの中で最年長であることも、ワヤンが末子であることもあるのである。それらが示していることは、どんな夫婦にとっても、子どもの誕生はワヤン、ニョマンニ目マン、マデ、クトゥトそして再びワャンという名の循環的継承、絶えることなく無限に続く四段階の反復を形成するのである。肉体としての人間は生まれ、やがてかげろうのようにはかなく消えていくが、社会的には登場人物は永遠に変らない。というのは、新しいワインやクトゥトたちが神々の超時間的な世界から現われ(赤ん坊また神性からほんのわずか離れているのだから)、神なる世界に再び消えていった者たちと交替するからである。」 『文化の解釈学(Ⅱ)』310-312.(Geertz, C. (1973). The Interpretation of Cultures. Basic Books, 371-372.)
*3:「ルカによる福音書」23章34節の原文については、ギリシア語・英語逐語対訳『Greek Interlinear Bible (NT)』を参照した。
*4:この論理は「無敵の人」(ニコニコ大百科)という概念に由来しているが、好き勝手に悪いことをしてもいいという意味では使われていない。
*5:中川孝訳『六祖壇経』筑摩書房(Pp. 31-42.)の記述をもとに、著者が要約。 英訳としては、たとえば、仏教伝道協会の『Platform Sutra』がある。 なお、慧能の弟子が黄檗宗の開祖、黄檗であり、その弟子が臨済宗の開祖、臨済である。
*6:
*7:」
*8:
*9:
*10:ジェームズ, W. 舛田啓三郎(訳)(1961).『宗教的経験の諸相(ウィリアム・ジェイムズ著作集3)』日本教文社, 190.
*11:私たちが合理的意識と呼んでいる意識、つまり私たちの正常な、目ざめているときの意識というものは、意識の一特殊型にすぎないのであって、この意識のまわりをぐるっととりまき、きわめて薄い膜でそれと隔てられて、それとは全く違った潜在的ないろいろの形態の意識がある、という結論である。私たちはこのような形態の意識が存在することに気づかずに生涯を送ることもあろう。しかし必要な刺激を与えると、一瞬にしてそういう意識の形態の意識が全く完全な姿で現われてくる。それは恐らくどこかにその適用と適応との場をもつ明確な型の心的状態なのである。この普通とは別の形の意識を全く無視するような宇宙全体の説明は、終局的なものであることはできない(ジェームズ, W. 舛田啓三郎(訳)(1961).『宗教的経験の諸相(ウィリアム・ジェイムズ著作集3)』日本教文社, 190.(原文は「It is that our normal waking consciousness, rational consciousness as we call it, is but one special type of consciousness, whilst all about it, parted from it by the filmiest of screens, there lie potential forms of consciousness entirely different. We may go through life without suspecting their existence; but apply the requisite stimulus, and at a touch they there in all their completeness, definite these of mentality which probably somewhere have their field of application and adaptation. No account of the universe in its totality can be final which leaves these other forms of consciousness quite disregarded.」
James, W. (1988). Writings 1902-1910: The Varieties of Religious Experience / Pragmatism / A Pluralistic Universe / The Meaning of Truth / Some Problems of Philosophy / Essays. Library of America, 349.)
*12:
*13:[United Nations Office on Drugs and Crime. 2018
*14:Brazil Suicide Rate 2000-2021 | MacroTrends
*15:Suicides in Japan Drop Below 20,000 in 2019 | Nippon.com
*16:日本では経済的な沈滞が続いているが、失業率は減少しつづけており、自殺率の低下と非常によく相関している。操作的に定義される精神疾患の増減を定量的に示すのは難しいが、勤勉で責任感が強いメランコリー親和的な、典型的なうつ病は減少し、境界性パーソナリティ障害に近い、未熟な自己中心性と親和的な、非定型うつ病が増えているといわれる。救急搬送された大学生は、うつ病という診断は受けていないが、面倒なことはできないが、好きなことはできるという反応性があること自覚しており、非定型うつ状態だと自己診断している。
*17:[United Nations Office on Drugs and Crime. 2018
*18:Fernanda Palhano-Fontes, Dayanna Barreto, Heloisa Onias, Katia C. Andrade, Morgana M. Novaes, Jessica A. Pessoa, Sergio A. Mota-Rolim, Flávia L. Osório, Rafael Sanches, Rafael G. dos Santos, Luís Fernando Tófoli, Gabriela de Oliveira Silveira, Mauricio Yonamine, Jordi Riba, Francisco R. Santos, Antonio A. Silva-Junior, João C. Alchieri, Nicole L. Galvão-Coelho, Bruno Lobão-Soares, Jaime E. C. Hallak, Emerson Arcoverde, João P. Maia-de-Oliveira, and Dráulio B. Araújo (2019). Rapid antidepressant effects of the psychedelic ayahuasca in treatment-resistant depression: a randomized placebo-controlled trial Psychological Medicine, 49, 655–663.
*19:Personality, Psychopathology, Life Attitudes and Neuropsychological Performance among Ritual Users of Ayahuasca: A Longitudinal Study
*20:"Et secundas res splendidiores facit amicitia et adversas partiens communicansque leviores. キケロ『友情論』