最初の接見
青井被告との最初の接見は、2020年6月に実現した。
青井被告は、初公判で、自らの行いをボーディサットヴァに例え、罪状を否認した。そして再逮捕され、また京都の郊外にある、田辺の留置所に戻っていた。
日本の法廷でサンスクリットを使い罪状を否認するとは、かつてのオウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫を思い起こさせた。
この人物は、いったい何者か。私は、担当の喜久山弁護士を介して、接見の希望を伝えた。
喜久山弁護士は、割り当てられた国選弁護人であり、薬物事件が専門ではない。
青井被告は、この初対面の弁護人に対し、開口一番「アカシア・コンフサとミモザ・テヌイフローラのお茶は麻薬及び向精神薬取締法の別表一のロによって麻薬から除外されている麻薬原料植物以外の植物の一部分です」と、法律の条文を朗唱したという。多くの刑事事件を担当してきた喜久山弁護士にとっても、このように法律の条文を正確に暗唱する被告は初めてだった。これは本当の意味での確信犯だ、と確信したという。
新型コロナウイルス感染症の拡大で発令されていた緊急事態宣言は解除されたが、外出自粛要請は続いていた(the curfew had been imposed)。留置所での接見は叶わず、テレ面会となった。弁護士が、Skypeでつないでくれた。
液晶画面の向こうに現れたのは、法廷で見たのとはまた違う、笑顔の可愛らしい好青年だった。お騒がせしてすみません、すみません、と繰り返す彼は、とても謙虚な人物のようにみえた。
およそ「住所不定無職」「麻薬の売人」というイメージとは程遠いし、狂信的なカルトの教祖といった雰囲気もない。
職業は、農業らしい。自分の畑に自作の小屋を建てて住んでいるのだが、なぜか住民登録がうまくいかないのだという。
私は、留置所に行き、南米での体験を書いた『精神の星座ー内宇宙飛行士の迷走録ー』という本を差し入れるつもりだったが、彼は独房に秘密のアンテナを自作し、携帯電話の電波を傍受し、拙著の電子版を手元のスマホにダウンロードしていた。
犯罪の少ない日本でも、ときどき、薬物乱用で逮捕される人がいるが、それが初犯で、組織犯罪でなければ、そして本人が反省していれば、不起訴で終わる。
だから、個人が薬物事件で起訴されたと聞いて驚いた。しかも三ヶ月も勾留され、繰り返し追起訴されている。その薬物というのが、DMTを含むアヤワスカ茶である。
ネット上で不特定多数に売ったのが問題だったかもしれない。しかし、それなら薬機法で訴えられるべきだ。麻薬取締法で刑事告訴するとは、人権侵害だ。
青井被告は、収監されたときに、すべての所持品を没収され、氏名さえ奪われて[*1]ただ『九番』という数字で呼ばれていた。名前というアイデンティティさえも剥奪されて数字だけの存在になる。屈辱だ。
「名前なんてどうでもいいです。自分がバリ島に行ったときには、一郎とか二郎とかいう名前の人ばかりで、それで不自由していないみたいでした。これは要するに、生まれ育った文化の問題です」
たしかにインドネシアのバリ島では、性別を問わず、生まれた順に、一郎、二郎、三郎、四郎という名前をつけて、五番目に生まれた子供には、また一郎という名前をつける[*2]。だから、街は、一郎や二郎だらけだ。
「『田辺九番』とか、ハンドルネームみたいで面白いです。でも、もっと面白くできないかと思って、ツイッターでハンドルネームを大募集しました。多数決で、自分の名前は『田辺九番、起訴太郎』に決まりました」
こいつはアホ(louco)か?私は困惑した。
「姉み」コンプレックス
どうやら、正義感あふれる若い女性の検事が、勇み足で、インターネットを悪用して覚醒剤を売買する新種の組織犯罪を摘発したと勘違いした、というのが事件の実態のようだ。
「4ヶ月も拘留されるとは、懲役刑ではあるまいし。人権侵害です。検事のほうを訴える必要がありますね。若さゆえの過ちでした、と言わせて更生させなければ」
「検事さんをゆるしてあげてください。彼女は自分が何をしているのか、わかっていないんです(Forgive the prosecutor, for she knows not what she do., Perdoe a promotor. Ela não sabe o que faz.[*3]」。ただ職務に忠実だっただけです」
「十字架にかけられる覚悟ですか」
「さすがに死刑はありえないっす」
PCのモニタの中にいる青年は、人類の罪を贖う救世主なのか。それとも人をからかって楽しんでいるだけの愉快犯なのか。
「なぜ冤罪を起こした検事を弁護するのですか」
「検事さんとは、因縁の姉弟対決というか、なんというか、自分、『姉み』に弱いんです」
「姉み?調書を読んだかぎりでは、検事のほうが年下では」
「検事さんは、自分の『永遠の姉』なんです」
彼は、父なるものと闘おうとしない。エディプス・コンプレックスの不在。そして「姉み」のある女性に対しては、マゾヒズム的な被虐願望があるらしい。
本来無一物
「最高裁まで争う覚悟はできています」
「最高裁?」
「お茶は違法ではありません。違法だと判断されたとすれば、憲法十三条の幸福追求権にてらして違憲です」
「そんなことをしたら、何十年かかるか。裁判費用も馬鹿にならない」
「自分が逮捕されて有名になったので、おかげさまで『雑草で酔う』の売上が急増しました。いま続編『獄中で酔う』を書いています。最後は『勝訴で酔う』という本も書きたいです。三部作で売り込んでベストセラーにします。裁判三回分ぐらい稼げます」
これは悪い冗談(sacanagem)か?
事前に調書に目を通しておいた。容疑者の言動には理解不能な部分が多いが、首尾一貫性があり、精神鑑定の必要はない、と書かれていた。
「自分は、最後まで争う決意を固めました。争うといっても、悪いことを正当化しようとしたり、言い逃れしたりするつもりはありません。『法律を解釈する』という知的なスポーツに興じる、という意味です」
「スポーツ?」
「日ごろ励まし、支えてくださる全ての方に感謝するとともに、先人の方々、運営スタッフ、 そして出場全選手に敬意を払い、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々、プレーすることを誓います!」
裁判というものを馬鹿にしている。
「自分、無敵です!」
「なぜですか?」
「失うものが何もないからです」[*4]
彼の阿呆さ加減が、「本来無一物」と喝破した禅の六祖、慧能の姿と重なった。
何も持っていないから、無敵なのである。
両親との面会
失うものが何もないと言い切る本人はいいかもしれない。しかし、ご家族はどうお考えなのか。
青井被告には、姉はいない。兄がいる。このお兄様は、大学で
インド哲学を学んだそうだが、その後の消息は、よくわからないらしい。どこか、青井被告と無常な世界観を共有しているのかもしれない。
第二回公判の後で、傍聴に来ていた、青井被告の父親に会った。意志のしっかりした表情をした、初老の男性だった。彼は、市役所の職員をしていたが、いまは退職したという。市役所では、同僚たちが、つぎつぎとうつ病で倒れていったという。
「どうしてこんないい人が、という人が、うつ病になるんです」
「いえ、うつ病というのは、いい人がなる病気なんです。責任感の強い人にかぎって、重荷に耐えられなくなってしまうんです」
「うつ病は薬で治せるといいますが、今の抗うつ薬で治る人は70%しかいません。あとの30%は治らないんです」
「そうですね。治療抵抗性うつ病といいますね」
「でも、息子は、雑草の中から、残りの30%を治す薬を発見したんです」
彼は私の目をじっと見つめた。
「私は、息子を誇りに思います」
私は驚いた。彼は、大うつ病の30%が従来の抗うつ薬に反応しない、治療抵抗性うつ病だという数字まで、正確に知っていた。DMTやケタミンのような精神展開薬が治療抵抗性うつ病に奏効するというのは、青井被告の発見ではない。しかし、彼は、きっと、息子のことを理解しようとして、勉強したのだろう。エディプス・コンプレックスの不在。息子を誇りに思うと言いきれる父親に、敬意を抱いた。
第四回公判の前に、法廷の入り口で列に並びながら、青井被告と話をしていた。その横に知的な雰囲気の女性があらわれ、私に話しかけてきた。青井被告の母親だという。
法廷での供述のために、青井被告は、着慣れないスーツを着ていたが、青いネクタイが曲がっていた。この世話好きそうな女性は、手を伸ばして彼のネクタイをまっすぐに直しながら、私に挨拶をした。どうやら、私が法廷で青井被告を弁護している大学教授だと聞いていたらしい。
「お母さん、こんなことになってしまって、本当に心配されたでしょう」
「ええ、私も最初は食べものが喉を通らなくて、なんだか、体脂肪が落ちて、スリムになってしまいました」
「これは警察の間違いです。きっと暴力団か何かと勘違いされただけです。大丈夫ですよ。しかし、ここまで頑張るとは、立派な息子さんですね」
「この子はね、もう小学生のころから、育てたトマトにピップエレキバンを貼ると甘くなるとか、けったいなことばかりしてましてね、何回失敗してもね、絶対に甘くなるんや言うてね、ほんま、そんな実験ばっかり。頑固な子やねえ」
「その探究心が、うつ病を治す薬草を発見したんですね」
「ほんま、ポジティブ、ポジティブ。この子はポジティブなだけが取り柄なんですよ」
お母様は、息子の顔を見て、微笑んだ。そして私に向かって、頭を下げた。
「せんせ、この子を、どうかよろしくお願いします」
母親の心の中では、息子というものは、永遠の赤ん坊のままなのだ。
事象そのものへ
青井被告は、両親の愛情に恵まれ、何不自由なく育った。国立の大学に進学し、微生物の培養を学んだ。顕微鏡の下で細胞が分裂していくのを見るのは面白かったが、人とうまく話すことができなかった。人と長い時間話をしていると、なぜか頭が痛くなってしまう。
大学を卒業しても、会社には就職しなかった。日本人は朝から晩まで働きすぎる。日本の会社は、人間関係が複雑すぎる。
彼は海岸で、ウニなど、シーフードになる海洋生物の養殖の仕事を始めた。しかし、2011年3月11日、日本で大きな地震が起こり、津波が彼の養殖場を流し去ってしまった。
彼は、すべてを失った。
失ったというのは正確な表現ではないかもしれない。最初から何も持っていなかったことに気づいたというほうが正しいだろうか。
それから、彼は、仕事で使っていた軽トラックの背中に屋根をとりつけて、「エスカル号」と名づけた。それが彼の家だった。短期でアルバイトをしながら、街から街へと移動した。
見たところ、彼はマッチョな男ではない。しかし、大学で学んだ生物学の知識が彼を助けた。貨幣経済の社会では、収入が少ない人は「食べていけない」という。そうだろうか?足下を見れば、たくさんの植物や動物たちがいる。
起きて半畳寝て一畳。水と、空気と、植物と、動物と、そして善き隣人があれば、生きていくのには何も問題はない。
金はなくても、知識があれば生きていける。植物についての知識(sabidoria)だ。猟銃の免許も取得し、イノシシを撃って食べた。殺された動物が、どんな気持ちだったか、考えながら、肉を解体し、感謝しながら、料理して食べた。
やがて、植物が彼に知識(sabedoria)を教えてくれるようになった。「酔い("bebedeira")」を通して、彼は知恵(sabedoria)」を得た。
彼は、PCのモニタ越しに、当時のノートを見せてくれた。[*5][*6]
ある夏の日の夜、彼は南アルプスの山麓で、ケシ科の植物、クサノオウを煙草にして吸ってみた。
目に飛び込んでくる街灯の光が揺らいだ。
背筋に快感が五回、六回と走った。
意識が覚醒した。世界が完璧に見える。そうとしか言いようがない。
バグを見つけた快感は、まさにこれなのだろう。
世界はバグで満ちている。ほんの少し薄皮をめくってやれば、ほらこんなにも完璧に薄ら淀んだバグが見つかるじゃないか。
目をかっと見開きつつ夜のダム湖畔をさまよう。擦れる草がとてもくすぐったい。秋虫の鳴き声が脳内でサラウンド再生される。
心地よい眠気に誘われるままに「エスカル号」に戻り、そのまま眠りに落ちた。
その晩、彼は明晰夢を見た。夢を夢だと意識することができる夢だ。
目の前に、豊満な乳房の、裸の女性がいた。
性的な行為は一切せず、ただひたすら隣に寄り添って肌の暖かみを分けてもらった。
その時気付いた。「ああ、このひとはお母さんだ」って。
その甘い夢の中で、そういえば昔から母に甘えたことは少なかったな、と思い出す。甘えれば受け入れてくれたのだろうが、なにがどうして甘えることを許さないような、壁、があった。
「神様や精霊は見えなかったのですか」
「神は見えません。世界が見えます」
「世界が見えるとはどういうことですか」
「事象だけが見えるということです」
事象そのものへ!(Zu den Sachen selbst!)[*7]」ーフッサールの「現象学的判断停止(epokhế)」、「現象学的還元[*8]」という言葉が想起された。
亜酸化窒素を吸引したジェームズは、それを「pure experience[*9]」と呼び、妙心寺に参禅した西田は、それを「純粋経験」と呼んだ。
「この普通とは別の形の意識を全く無視するような宇宙全体の説明は、終局的なものであることはできない」[*10]。ほんの少し薄皮をめくれば、世界は完璧な姿をあらわす。
「事象だけ」の世界はバグだらけだ。いや、生活世界(Lebenswelt)[*11]というプログラムからはみ出てしまう事象をバグとして、見ないようにして、イリーガル・ファンクション・コールが出ないようにしているのだ。
今までずっと色眼鏡をかけて生きてきたことに気づかなかっただけで、それを外しさえすれば、たちまち目の前には完璧な世界があったことをーそれを忘れていただけだったということにー気づいた。
「薬草協会」
その体験以来、いつの間にか、人と話をすると頭痛がするという、不思議な持病が消えていた。
それから彼は、植物の中に含まれるサイコアクティブな物質を探求し始めた。人間には、肉体の栄養だけではなく、魂の栄養も必要だからだ。
耳を澄ませると、それぞれの植物が、それぞれの歌を歌っているのが聞こえるようになってきた。
一つの植物に、一つの歌がある。植物たちは、何を語りかけてくるのだろう。
知りたいことがあれば、Googleさんに聞けば良い。放浪生活をしていたとはいえ、Wi-Fiの圏外には出なかった。むしろ、無線でインターネットに接続できるインフラを整備してくれた文明というものに感謝した。
「自然に還れ」ではない。「技術を引き連れて、もう一度原始へ還れ」なのだ。
ネットを検索して、彼は『彼岸の時間ー〈意識〉の人類学ー(O Tempo do Higan - A antropologia da consciência -)』という、不思議な名前のブログを見つけた。
アマゾン川のジャングルに、シピボ族という少数民族がいる。その人たちは、アヤワスカというお茶を飲んで、植物の精霊と出会い、精霊の歌を聴くという。日本人の人類学者が、シピボ族の村に行って自分もお茶を飲み、精霊の世界を体験したのだという。探していたものはこれだ、と直感した。
アヤワスカという「お茶」の有効成分はN, N-ジメチルトリプタミン、DMT。IUPAC準拠化合物命名法によれば、三、二、ジメチルアミノ、エチル、インドール。たちまち分子構造が脳内で再構成された。それがセロトニン、つまり五、ヒドロキシトリプタミンと酷似するインドールアルカロイドだということは、すぐにわかった。生化学は、大学生のときに勉強した。
しかし、DMTは経口で摂取すれば消化酵素で分解されてしまう。アマゾンの先住民族たちは、このことを知っていて、DMTを含むチャクルーナという植物と、ハルミンを含むアヤワスカという植物を組み合わせてお茶を点てているという。じつによく工夫されている。彼はとても感心した。
そして、このアヤワスカ茶を、日本に自生している植物で再現しようと考えた。DMTは、あらゆる植物の中に含まれている。試行錯誤の末、アカシア・コンフサという、黄色い花を咲かせる植物に出会った。アカシアの精霊は、青磁のように深く青く、団欒のように優しいオレンジの色彩を歌っていた。
モノアミンオキシダーゼ阻害薬はどうやって調達するか。これもGoogleさんに教えてもらった。通販でモクロペミドというサプリメントを買った。これをアカシアのお茶といっしょに飲み込むと、薄皮の向こうにある完璧な世界が見える。じゅうぶんな再現性がある。
そして青井被告は『薬草協会』の活動を始めた。2016年のことである。
私は第二回公判の後で、ふたたび青井被告の婚約者と会った。
「『ゆるしてあげてください』云々は、イエスが十字架にかけられるときの決めぜりふですよ」
「ほな私はマグダラのマリアか?あの検事の女[*12]!」
三歳年上の婚約者は、妬みと怒りの入り交じった大阪弁で怒鳴った。
彼女はむしろ、ハディージャだ。青井さんは神の子などではない。ただの、普通の人間だ。私も普通の人間だから、彼が神の言葉を預かったかどうかなど知らない。しかし、たとえ彼が神の言葉を預かったとしても、それは、ただ預かっただけで、彼は、ただの人間なのだ。
「酔い」の三類型
「お茶を飲む(drink / beber)ことで何が得られたのですか」
「お茶から得られるのは、『酔い(drunkenness / bebedeira)』です」
「知恵(sabedoria)?」
思わず問い返した。聞き間違えたのかと思った。
「いえ『酔い(bebedeira)』です。『酔い(bebedeira)』によって『知恵(sabedoria)』が得られるというわけです」
彼は、ときどき奇妙な言葉を使う。それでは、彼の言う「酔い(bebedeira)」とは何か。
「『酔い[ as bebedeiras]』には、ざっくり三種類あります。『オピオイド酔い ["a bebedeira do opioide"] 』と『カテコール酔い ["a bebedeira do catecol"]』と『インドール酔い ["a bebedeera da índole"]』です。人間は生きているかぎり、何かに酔っていなければ生きられないというわけです。留置所は社会の外部ではありません。むしろ社会の縮図です。留置所という厳しい環境では、闘いの適応戦略(strategy)が試されます。氷河期にネアンデルタール人は滅びましたが、ホモサピエンスは闘って生き延びました。ホモサピエンスは三種類の『酔い』を使い分けて生き延びる戦略を進化させました」
拘留生活が二ヶ月目に入った、ある曇り空の午後、婚約者が青井被告に一冊の本を差し入れた。
隠れキリシタンを題材とした、
遠藤周作の『沈黙』である。
1549年、ポルトガルから福音を伝道すべく派遣されたイエズス会の修道士、マヌエル・ダ・ノブレガは、トゥピ人の土地、つまり、ブラジルのサルバドールに上陸した[*13]。そして同年、フランシスコ・ザビエルが日本の鹿児島に上陸した。
ジャポンという、この極東の島民たちは神の言葉に大いに関心を示し、熱心に学び始めた。ザビエルは、この島の人々は、善良にして礼儀正しく、今まで出会った異教徒の中で最も優れた人々であると感嘆し、彼らは良きキリスト者になるに違いないと、本国ポルトガルに報告書を書き送った。
しかし日本の将軍は、キリスト教の布教は、ポルトガルが日本を植民地支配するための口実だと決めつけた。サムライたちが刀を振りかざし、信心深い「切支丹(刀で斬り殺すべき人々)」たちを徹底的に弾圧し、やがて日本は白人を国外追放し、鎖国した。
しかし、暴力は信仰の灯火を消すことはできなかった。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである(Blessed are those who are persecuted for righteousness’ sake, for theirs is kingdom of heaven)[*14]
「その本を読んで、どう思いましたか」
「なんだか不健康ですね」
あっさりひと言でで片付けられてしまった。
「マルクスさんは宗教は民衆のアヘンだ(Die Religion … ist das Opium des Volks.)[*15]」といいました。アヘンから単離されたモルヒネはオピオイド、つまり鎮痛薬です。そして1975年にブタの脳から内因性モルヒネであるエンドルフィンが発見されました。向精神薬と同じ働きをする物質が後から脳内で発見されることはよくあります。DMTもそうです。痛みを感じると、脳内でβ-エンドルフィンが分泌され、痛みを麻痺させます。痛めつけられれば痛めつけられるほど、β-エンドルフィンが分泌され、痛みは快楽に変わります。マゾヒズムの脳内機序です。これが『オピオイド酔い["a bebedeira do opioide"] 』です。オピオイド酔い闘争を、自分は『ルート1』と定義しました。オピオイドには耐性と身体依存性があります。だから『オピオイド酔い["a bebedeira do opioide"] 』は不健康です」
青井被告は大学で生物学を学んだが、体系的な哲学や思想は学んでいない。しかしマルクスの唯物論的宗教批判を内因性モルヒネの作用機序として解釈するのは、生物学オタクである彼の独壇場だ。
彼は、いま『雑草で酔う』の続編として『獄中で酔う』という本を書いているのだといって、小学生のような文字でノートに走り書きした、手書きの図を見せてくれた。
過度な図式化である。彼の世界観の中では、人間の思想と行為が、すべて神経伝達物質の増減に還元されてしまう。
「それではキリスト教も依存性薬物ですか」
「国家管理用の宗教に変質させられた後のキリスト教です。敵が強ければ強いほど『こんなに強い敵に虐げられて抵抗して頑張って、でも抑圧されている私たちってなんて立派で偉いんでしょう』という酔いが発生します。これは支配する側に都合の良い酔いです。陰謀論(conspiracy theory)にも好適な生育環境です。やっていることは立派かもしれませんが肉体的健康が損なわれます。
WHOの定義によれば、健康とは、肉体的、精神的、社会的、そして霊的の四要素からなる動的平衡状態です。ひとつでも失えば闘えなくなります。これが『ルート1』の弱点です。そしてこの『オピオイド酔い』と共進化してきたのが『カテコール酔い["a bebedeira do catecol"]』です。自分はこのカテコール酔い闘争を『ルート2』と定義しました。つまりマックス・ウェーバーさんの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus)』[*17]です」
ギリシアでプラトン主義と出会い洗練されていったキリスト教思想の霊性は、19世紀のドイツにおいては、すでに形骸化していた。資本主義は、そこから生まれた。カトリックが僧院を中心とする現世拒否的禁欲(weltablehnende Askese)という倫理にもとづいていたのに対し、世俗化され、聖別された僧院を否定するプロテスタントの倫理は現世内的禁欲(innerweltliche Askese)である。禁欲的な労働が蓄積を生み、蓄積がさらに資本主義を発展させた。
日本では、拘置所で暮らす人々の多数派は「ヤクザ」と呼ばれるマフィアのメンバーである。彼らはもっぱらメタンフェタミン(覚醒剤)の違法取引によって資金を得ている。どうやら被告人も、メタアンフェタミンを取引していたと勘違いされてしまったらしい。
「ヤクザさんたちはカテコール酔い闘争、つまりルート2によって拘置所での生活に適応しています。ホモサピエンスが氷河時代を生き延びた第二の適応戦略です。ヤクザさんたちは社会に対して怒り、社会の中で犯罪を犯し、拘置所に入れられ、拘置所に入れられたことに対してまた怒り、またその怒りを原動力にして生き延びます。ヤクザさんたちは反社会的ではありません。資本主義社会に『過適応』しているというわけです。ヤクザさんたちは、ノルアドレナリンによる怒りを原動力にして戦い、勝利のドーパミンに酔います。負けるとオピオイド酔いに落ちます。負けが込んでくるとシャブを打ってカテコールアミンを補充します。つまりルート1と2はセットです。この依存スパイラルに落ちると、勝ち負けの現場から抜け出せなくなってしまいます。満足は得られますが、幸せは得られません」
19世紀、西欧列強の圧力に抗しきれなくなった日本は開国し、脱亜入欧を合言葉に、富国強兵の帝国へと急発展をとげつつあった。強壮作用のある漢方薬、麻黄からエフェドリンが単離され、そこからメタアンフェタミンが合成された。メタアンフェタミンは「ヒロポン(Philo-Pon(好き・労働))」という商品名で発売された。メタアンフェタミンを「スピード」ともいう。どこまでも加速していくのが、資本主義の精神である。
この「労働好き」薬でカテコール酔い状態になった日本人たちは、強い帝国を築き、膨張し、自らが模倣した西洋文明と戦い、敗北した。敗戦後、国家が管理していたメタアンフェタミンが民間に違法に流出した。日本人は、その驚異的な勤勉さで祖国を、世界一安全で豊かな社会へと復興させた。その豊かさが絶頂に達し、頭打ちになった、1986年に、被告人は生まれた。私が京都大学に入学し、生物学の勉強を始めた年でもある。
「カテコール酔い」によって、日本人は努力し、技術を進歩させ、社会を進歩させた。しかし、人々は、その先にあるものを見失いつつあった。物質的な豊かさよりも、精神的な豊かさが必要だと叫ばれた。けれども、早くから仏教寺院の形骸化が進んだ日本は、西洋におけるキリスト教以上に、精神的な救いを失っていた。
「留置所の食事をカンベンといいます。官製弁当のことです。ご飯は70%が米で、30%が麦です。コンビニ弁当よりもずっと味が薄くておいしくなかったのですが、毎日食べているとだんだん感覚が敏感になってきて、自分は食べものの微細(subtle)な味わいがよくわかるようになりました。それに慣れてくると拘置所の暮らしが楽になりました。『インドール酔い』が発生しました。セロトニンなどのインドールアルカロイドには逆耐性があります。留置所ではアヤワスカ茶は飲めませんが、松果体から内因性DMTが出るようになりました。お寺でお坊さんたちがやっている坐禅というのは自分が開発した松果体トレーニングと同じだとわかりました。だから自分は臨済宗です」
ウェーバーは、キリスト教の思想の基本には「禁欲(Askese)」があり、これと対比されるように、仏教を含むインド的宗教の基本には「瞑想(Kontemplation)」があると分析した。ここでは、キリスト教の「現世拒否的禁欲(weltablehnende Askese)」と、仏教の「現世逃避的瞑想(weltflüchtige Kontemplation)」が対比される[*18]。
この「瞑想」が、「インドール酔い["a bebedeira da índole"]」である。
インドール酔いには、逆耐性がある。つまり、DMTを飲めば飲むほどに、内因性のDMTが分泌されるようになり、ついには、何も飲む必要がなくなる。禁欲をすれば、痛みを和らげるために内因性モルヒネが分泌されるが、それには耐性がある。瞑想をすれば、内因性DMTが分泌されるが、それには逆耐性がある。19世紀ドイツのキリスト教を肉体の軽蔑者[*19]と批判したニーチェは、いっぽうで仏教は宗教ではなく、いっしゅの養生法だと分析した[*20]。
ヨーロッパをアヘンや酒のような「オピオイド酔い」から覚醒させたのは、植民地から持ち帰られたチャやコーヒーに含まれるカフェイン、コカに含まれるコカインだった。これらの物質は「カテコール酔い」を引き起こす。
チャの原産地である中国では、エフェドリンを含む麻黄が漢方薬として使われてきた。ヴェーダの時代のアーリア人たちは「ソーマ」と呼ばれる薬草を摂取することで絶対的な真理を得ていたとされるが、その正体は不明である。精神展開薬を含むキノコではないかという推論があるが、『リグ・ヴェーダ』[*21]の中には、繊維質の植物だという記述があり、麻黄だという説も有力である。いずれにしても、インド人たちは、早くもウパニシャッドの時代までには、向精神薬を必要としなくなった。瞑想、つまり内因性DMTによる「インドール酔い」という技術を発見し、逆耐性を獲得したからである。
その後、仏教が形骸化した日本よりも早く、西欧社会でインドール酔いの再評価が進んだ。インドール系精神展開薬であるLSDが合成され、アメリカ大陸の先住民族の文化が再評価され、シロシビンやDMTなどを含む薬草が研究された。1960年代にはサイケデリック、ヒッピーといった対抗文化が発展したが、1961年の「麻薬に関する単一条約」が1971年の「向精神薬に関する条約」に改訂され、ほとんどのサイケデリックスが「スケジュールⅠ」として禁制品となった。
対抗文化は、前の世代が勝ちとってきたものに対して、対抗していた。彼らはカテコール酔いを、否定のために使い、創造のために使わなかった。自己の内部にある怒りを、外部の社会に投影していた。
自由という刑/自由からの逃走
マルクスはまた「ヘーゲル法哲学批判」で、ルターの宗教改革に触れ、「彼は僧侶を俗人に変えたが、それは俗人を僧侶に変えたからであった。彼は人間を外面的な信心から解放したが、それは信心を人間の内面のものとしたからであった」[*22]と書いている。フーコーは『狂気の歴史』[*23]の中で、西洋近代における精神科病院が僧院に由来することを指摘した。ここでいう僧院とは、カトリックの僧院のことである。プロテスタントとは、カトリックの改革である。
フーコーはさらに『監獄の誕生』[*24]において、処罰から治療へという、外的な権力による支配が内面的な規範による支配へと変容したことを指摘している。人々は自由な暮らしを謳歌していると錯覚しているだけで、内面化されたパノプティコンに支配されている、というのである。
「拘置所では筋力が落ちます」
「運動不足になりますか」
「特定の筋肉が落ちます。とくに自己決定筋が落ちます」
「自己決定権?」
「自己決定筋です。いったん保釈されて思い知りました。留置所では官製弁当しか食べられませんが、外の世界では何を食べるかを自分で決められます。外の世界にはビールや焼き肉やチョコレートを食べる自由もありました。保釈されてすぐにファミレスに行ってピザを食べました。てきめんに頭痛に襲われました」
「持病の頭痛が再発しましたか」
「拘留中に逆耐性ができてしまったので、刺激が強すぎたのです。娑婆の生活は楽しいですが、拘置所の生活は楽です。官製弁当はおいしくありませんが、娑婆にいるときみたいに、毎日何を食べるのかについて考えなくていいから楽です。決まった時間に起こされて、決まった時間に弁当が出ます。自分で考える必要がなくなります」
「しかし保釈されてまた再逮捕された」
「留置所に戻って、検事さんと再会できました。『またお会いできましたね』といって手を振ったら、なぜそんなに嬉しそうなのか、理解できないようでした」
「再逮捕されたのに楽しそうなのはおかしいですよ」
「だから、自分は『監獄の内部では、人は不自由という刑に処せられているが、監獄の外部では、人は自由という刑に処せられている[*25]。そして、人々は自由という刑から逃走するために[*26]各人にとって快適な監獄を、自らでつくり、その内部に収監される。だから、およそ現世は娑婆(苦しみに満ちた世界)であり、だから、監獄の外部など存在しない』と言ってやりました」
薬物犯罪に手を染めてしまった不良少年を反省させ、更生させようと思っていた若い女性検事は、この知能犯の理路整然たる意見陳述に、返す言葉を失った。
「でも、自分は検事さんを敬愛しています。留置所では、検事さんはいつも健康のことを気づかってくれました。自分の暮らしが何によって成り立っているのか、それへの敬意を忘れません。今回の逮捕に関わった人も、今まで私の身の回りの平和を守ってきてくださった方々です。ただ上司に従って仕事をしただけです。本当にご苦労さまです」
彼は繰り返し「感謝」という言葉を使う。豊かな社会で彼が何不自由なく成長できたのは「カテコール酔い」によってその豊かさを作り上げてくれ、それを維持してきた、一世代前の日本人たちだったからだ。
酔いを醒ます酔い
南米の先住民文化は、アンデス/アマゾンという二項対立でとらえることができる。アンデスのケチュア人は「嘘をつくな、盗むな、怠けるな(ama sua, ama llulla, ama quella)」を挨拶の言葉として使うほどに謹厳実直な人々であり、15世紀、コンキスタドールによる侵略を受ける直前のインカ帝国の繁栄は、宗教改革が起こった西欧を凌駕するものであった。
アンデスの先住民たちは、コカの有効成分であるコカインを服用し「カテコール酔い」による帝国を築き上げた。
アマゾンの先住民たちは、アヤワスカ茶の有効成分であるDMTを服用し「インドール酔い」による、「霊的民主主義」[*27]を発展させ、「国家に抗する社会」[*28]を作り上げた。インドール酔い闘争、ルート3を積極的に維持し、発展させたのだ。
20世紀のブラジルで、アヤワスカ茶がカトリック出会った。サント・ダイミやUDVの起源と、その後の展開については、ここで私が詳述する必要はないだろう。
これらのアヤワスカ茶系新宗教運動は、はじめはアマゾニアのセリンゲイロ(ゴム樹液採取労働者)たちによる、いっしゅの黒人奴隷解放運動だったが、1970年代以降「BRICS」の筆頭であるブラジルの中産階級へと浸透した。アヤワスカ茶は、急成長をとげる資本主義に対するカウンターカルチャーへと変容をとげてきた。サンパウロやクリチバといった大都市で、サント・ダイミがでインド由来の宗教思想を旺盛に吸収している。世俗化していく中で形骸化した「秘蹟(Sacramentum)」を取り戻そうとする新しいキリスト教が「瞑想」へ向かっている。
都合よく歪められたキリスト教が、民衆を「オピオイド酔い」にしてしまった。資本主義は「カテコール酔い」に乗って加速し続けてきた。典型的なメランコリー型うつ病は、とりわけ第二次大戦後のドイツと日本の国民病となった[*29]。DMTをはじめとするインドール系精神展開薬は、典型的なメランコリー型うつ病の特効薬として[*30]、またコカイン依存、アルコール依存の特効薬としても研究が進められている。
薬物によって薬物依存が治癒するとは、どういうことなのだろうか。
「インドール酔い」が、「カテコール酔い」や「オピオイド酔い」を醒ますのである。
さらに逆説的なことに「インドール酔い」には逆耐性がある。酔えば酔うほどに、酔いから醒めるのである。
CE2021/07/14
JST 作成
CE2021/07/14
JST 最終更新
蛭川立